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パナパウから来た少女 〜クレンターニャの秘術〜 #1 イムレとナシラ

 ひっそりとした朝の空気の中、ラグラウス邸の裏手にある通用口の前に立っていたのは二人の少女だ。  一方の少女は、明るい褐色の肌を持ち、まだ年若く、どこか幼さの残る顔立ちをしていた。  シンプルな紐でポニーテールにまとめたしっとりとした黒髪が、動くたびに軽く揺れた。  髪の毛と同じように深みのある黒い瞳は伏し目がちに下を向いており、その肌の色を除けばログレスの貴族と言ってもおかしくない端正な顔には、わずかに愁いにも似た表情を浮かべている。  地味な色合いの丈の長い麻のワンピースの上から、粗末なカーディガンを羽織ることによって朝方の冷え込みに対処していたが、履いているのは簡素なサンダルであった。  おそらくアイレサーズ(南方群島)あたりの出身なのであろう。  もう一人の少女も、隣に立つ少女と同じ褐色の肌と黒色の髪を持っていた。  黒髪は柔らかく下ろされて肩に軽くかかっている。  穏やかで明るい表情が特徴的だった。  やや長身でしっかりとした体格の彼女が隣に立つ少女よりも少し年上に見えるのは、南方人らしいしっかりとした目鼻立ちだけでなく、落ち着き払った表情も大きい。  彼女の衣装もまた素朴なもので、膝丈のスカートに袖の長い上着を羽織り、腰には編み込みの紐を巻いていた。  明るく気取らない彼女の雰囲気が、もう一方の少女の緊張をかろうじて和らげるているかのように見える。  彼女は傍らの少女に軽く微笑んでから小声で囁いて見せた。 「さぁ、ナシラ。いよいよ新しい生活の始まりよ。大丈夫、あなたなら問題なくやれるわ」  それは、ログレスの海外領土であるパナパウの言葉だった。  穏やかで流れるような響きが、ナシラの緊張を少しだけ和らげるように響いた。  彼女の励ましに、もう一方の少女……ナシラは自分がこれからこの場所で求められる新しい立場を改めて意識した。  少しだけ背筋を伸ばす。  ナシラは、深呼吸を一つしてから静かにうなずいた。  肩から下げた少し大きめの質素な布のかばん……今のナシラの持つ全財産が入っている……をかけ直す。  二人は通用口の扉をそっと押し開け、薄暗い廊下へと一歩を踏み出した。  外の冷たい朝の空気から一転して、室内は少しひんやりしているものの、どこか落ち着いた暖かさが漂っていた。  ナシラの視線は、廊下の古びた木の床や整然と並んだ掃除用具、棚にかけられた使い古された布巾といったものに引き寄せられた。  もちろんナシラにとっては初めて目にする光景である。  これが自分の新しい仕事場となる場所なのだと、胸の奥にじわじわと実感が湧きあがってくる。  今までナシラが過ごしてきた場所とはまったく異なるその環境に、心がざわつきを覚える。 「ナシラ、大丈夫?」  イムレが優しく問いかけると、ナシラは少し緊張した面持ちのまま小さな声で答えた。 「うん、大丈夫よ。イムレ」  あどけなさすら感じさせるような可愛らしい声が紡ぐ言葉は、緊張のせいかどことなくたどたどしく聞こえた。  廊下を奥へ進むと控えめな音が聞こえてきて、二人は足を止めた。  先に見えるのは、少しだけ開かれた木製の扉だ。  そっと覗き込むと、厨房らしき部屋の中で朝の準備に忙しく動く数人の姿が見えた。  気づかぬうちに唾を飲み込み、ナシラは自分の緊張を少しだけ解こうと肩を軽くほぐしてみる。 「行こう、ナシラ。きっとみんな優しいよ」  イムレがまたパナパウ語で囁き、そっとナシラの肩を叩いた。  ナシラは心細げな表情をイムレに向け、こくんとうなずいた。  これから相対することになる人々が果たしてナシラのことを受け入れてくれるか、ということは今のナシラにとって非常に大きな問題であった。  ナシラとイムレが厨房の入口に近づいた時、ちょうど中から一人の女性が顔を出した。  年配のメイドだ。  彼女は扉の反対側佇むナシラとイムレの存在に気がつくと、少し驚いた様子でまじまじと二人を見つめてから、微笑みを浮かべた。 「おや、あなたたちが新しいメイドさんたちね?エレア様から聞いているよ」  年配のメイドに声をかけられて、ナシラは心臓が跳ね上がるように感じた。  厨房の中にいる他の使用人達の視線が一斉に自分に集まるのを感じる。  ナシラは自然に振る舞おうとしながらも、不安に苛まれ、軽く唇を噛みしめた。  しかし、今は自分がやらなくてはならないことをやるしかない。 「ハ、はい……わたし、ナシラ……です」  ナシラはぎこちなく答えた。  まだログレスの言葉に不慣れなのであろうか。  聞き取りにくいというほどではないが、発音自体にもパナパウのなまりが強く感じられた。  ナシラの拙い言葉遣いを前にして、年配のメイドは柔らかい顔で目を細めた。 「まぁ、かわいいこと」  その柔和な表情にナシラは少しだけ安堵し、胸をなでおろした。 「こにちは、おばさん、どこに……行けばいい?」  たどたどしい言葉でそう尋ねるナシラに年配のメイドは優しげな笑顔で答えた。 「私の名前はモリーよ。よろしくね。まずはあなたたちの部屋に案内してあげるわ」  年配のメイド……モリー歓迎を受けたナシラとイムレは、彼女の誘導に従い、邸内の長い廊下を歩き始めた。  足音が静かに響く中で、ナシラは、自分がこの館の使用人としてこれから過ごしていくことになる……少なくとも当分の間は……という現実をもう一度思い返した。  それは、ナシラ自身が選択したことでありながら、重くのしかかってくるような感覚を生じさせる現実であった。  ふと気がつくと、隣で歩くイムレがさりげなく肩を並べ、温かな眼差しを向けてくれていた。  ローダン地区で共に暮らしていた時と変わらないイムレの励ましに、ナシラは少しだけ背筋を伸ばした。  先を行くモリーは、時折ふたりに話しかけてきた。  それはごく穏やかな初対面の世間話であったが、話しかけるたびに、ナシラは内心で緊張を抑えられずにいた。  自分は果たしてこの邸で使用人として……メイドとしてうまくやっていけるのだろうか……その思いが頭を離れない。  ナシラにとって、働くということすら初めての経験なのだ。  もちろん、そのことは他の使用人にも伝えられているはずで、ナシラはただ自分なりに一生懸命に仕事に取り組んでいけばよいのである。  だがナシラの胸に押し寄せている不安感の正体は、そういうことではなかった。  ナシラの抱く不安は、自分に対して皆が違和感を覚えはしないか、ということなのである。  やがてモリーは一つの小さな扉の前で立ち止まった。 「ここがあなたたちの部屋よ」  そう、優しく告げてから、扉を開いた。  そこは簡素な二段ベッドと小さなテーブルが置かれた質素な部屋であった。  清潔に保たれてはいるが、石の壁はひんやりと冷たく、家具も最小限のものしか置かれていない。 「なかなかいい部屋じゃないの」  部屋に進み行ったイムレは目をくりんとさせて、前向きな感想を口にした。  ナシラはイムレの言葉にそっと頷いた後、部屋の中に進み入り、部屋の様子を確認するようにベッドの枠に手を置いた。 「朝食は早めにね。仕事はその後から始まるから、準備をしっかりしておくのよ」  モリーがにこやかにそう告げた。  その柔らかい言葉にナシラは安堵しながらも、その表情はさらに引き締まった。  初めての日に失敗しないよう、気持ちを引き締めなくてはならない。  モリーが部屋を出て扉が閉まると、ナシラは肩の力を抜き、ようやく深い安堵の息をついた。  今まで感じていた緊張が少しずつ溶けていくのを感じ、それとともに自分がうまくやり遂げたのだという実感が湧き上がってくる。  住み込みのメイドとして雇用された外国人の年若い少女に対して、モリーは何らの不審を抱いている様子もなく、その対応はしごく友好的で暖かいものであった。  初めての邸内での対面は、まずまず無事に終わったと見てよい。  ナシラは今、心の底から安堵を感じていた。  隣でイムレが小さく笑みを浮かべながらナシラに声をかけた。 「ほら、うまくやれたでしょう」  その言葉にナシラは小さくうなずき、少し照れくさそうに微笑み返す。  肩にかけていた荷物をベッドの上に置くとナシラは改めて部屋を見渡した。  この部屋がこれからの自分の新しい生活の場なのだ。  部屋には必要最低限の家具しかなく、二段ベッドにはつぎはぎのある薄い布団が敷かれ、小さな木のテーブルにはところどころ傷が刻まれている。  石造りの壁はひんやりとしていて、高い位置にある窓から差し込む光もわずかなものであった。  ナシラとイムレを包んでいたのは、質素で控えめな空間だ。  イムレが軽く背伸びをしながら、優しく微笑んだ。 「さぁナシラ、はやく荷物を整理して、ここでの生活に備えましょう」  その言葉に、ナシラも小さくうなずく。  イムレの存在が、慣れないこの場所での心細さを少しだけ和らげてくれているように思えた。  荷物に手をかけようとして、ナシラがふと顔をあげると、部屋の壁に下げられている古ぼけた小さな姿見が目に入った。  鏡の向こうから一人の少女がナシラを見返していた。  褐色の肌に艷やかな黒髪を持つ、可愛らしい南国の少女だ。  ナシラの心はふと、ここに至るまでの過去へと引き戻されていった。  どうして自分はこの場所にいるのか……そうなった経緯が思い起こされ、また、かつての生活が脳裏に浮かぶ。  ナシラは鏡に映った自分の姿を見つめながら、しばし静かにその記憶に浸った。 (つづく)


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