
PIXIVRequestでいただきました!
こちらの投稿の続編、同じ舞台で別の人物が洗脳されていく小説です。
以前の内容や人物、ピッチリ姿を引き継ぎつつ、雄臭部分などを濃厚にいたしました。
■■■■■■■■■■■■■■■
重い瞼を持ち上げると、真っ黒に塗りつぶしたような空間に俺はいた。
頭の芯が痺れたように重い。
自分が起きているのか、それともまだ夢の底に寝転がっているのか即座に判別がつかない。
ここは……。
口の中だけで呟く。喉が渇いていた。全身が重い。
俺は……。
短い一言だったが、その瞬間に俺はえづいた。
空気が異様に重かった。
肺に取り込もうとした酸素が湿っていて、ねっとりと肌にまとわりつく。呼吸をするたびに、生温かい粘膜で気管を撫で上げられているような不快感が走る。
それでいて……これは、なんとも…………。
「臭う」な……。
俺の呆然とした頭にも、鼻から脳天に昇ってくるこれはたまらないものがあった。
生乾き、雨上がり、土臭く、それでいてツンと鼻を突く。
様々な形容詞が頭に浮かぶ。
だがそのどれも打ち消すほどはっきり、一言で言い表せた。
雄臭い。
むせ返るほどの雄の臭いだ。
「ここは……どこだ……」
鉄と油の匂いにまみれて生きてきた俺でさえ、これほどの濃度は経験したことがない。まるで、何百人もの男たちの体臭を煮詰め、その蒸気だけを吸わされているような――。
そうだ、俺は……俺の工場は……どうした。
俺の家は。
息子たちは。
納期は。
様々な思考がどっと押し寄せ、汗が吹き出した。
汗が目に入り、一瞬視界が滲んだ。
思い出せ。何故俺はこんな暗闇にいるんだ。
□□□□□□□□□□□□□□□
「ぬっ、むぅっ……!」
俺は腹筋に力を込めて、喉の奥から声を絞り出していた。
五十キロはあるセメント袋を肩に担ぎ上げ、がっしりと腕に抱え込む。そのまま今日何度目かもわからない道を往復する。
真夏の太陽は頭上から俺を睨みつけ、タンクトップから露出した二の腕をなおもジリジリと焼いている。
滴り落ちる汗がグレーのタンクトップにみるみる染みを広げていく。首にかけたタオルはとうに絞れるほど湿っていた。
「くっ……!」
俺は痛みに呻き、背中を丸めてうずくまった。
汗が目に入った。俺はゆっくりとセメント袋を地面に降ろしまぶたを擦った。ヘルメットの縁から滴り落ちる塩辛い雫を、日に焼けて太くなった腕で無造作に拭う。
頭上ではクレーンが唸りを上げ、鉄骨が風に揺れる音がする。
今しがた下ろしたばかりのセメント袋を睨みつけながら、自分の荒い息遣いを聞いていた。
(……俺も、学生時代は柔道で全国まで行った身体だ。歳はとっても、力負けなんぞするつもりはない……が……)
若い頃から中年の今に至るまで、とにかく力と体には自信があった。息子の授業参観や運動会では、毎度「すごいマッチョな父ちゃんがいるぞ」なんて騒がれたもんだ。長男のときも、歳くってから出来た次男のときもだ。
だがそれでも、現場での仕事はどうにも使う筋肉が違っていた。慣れない環境、新しい人間関係、心労もたたり今までのようにパフォーマンスが発揮できない。
そんな自分に焦りと苛立ちを覚えながら、俺は自分の上腕二頭筋に力を込め、セメント袋を積み上げた。三角筋と僧帽筋が悲鳴を上げる。
「ヌゥ……ハァッ……ハァッ……!」
……だが、もう一袋だ。
俺ならいける。
自信はあった。だが、現実は甘くなかった。
普段使わない筋肉を酷使したせいか、鉛のように重い疲労感が足の先から這い上がってきていた。
「おう、無理すんなよ、新人さん」
新人。
背後から聞こえた声に俺は振り返った。
「ハァ……ハァ……監督……」
無精髭を蓄えた俺と同年代くらいの男が笑っていた。強面だが、浮かべている笑みは妙に人懐っこい。こんな中年親父を新人と呼ぶのも、馬鹿にしているのではなく親しみを込めた冗談なのだとすぐわかる。そんな雰囲気を纏っている。
新人。
ああそうだ、俺はこの現場では一介の新人に過ぎないのだ。
「……監督。すみません、まだ身体が慣れていないようで」
「しょうがねえさ。ま、焦るのもわかるぜ。その腕、その胸板。体力には誰よりも自信アリ! ってな人生だったんだろ?」
図星をグサリと突かれ、俺は押し黙ったまま頷いた。
そんな俺を慰めるように監督は「俺も同じだからな、わかるぜ」と、見せつけるように自分の胸板を叩いてみせた。コンプレッションウェアによっと強調される逞しい大胸筋、筋肉自慢の俺からしても嫉妬してしまいそうなほどに力強く迫り出していた。
「焦ったって体力がつくわけじゃねんだ。慣れるのを待つしかねえよ。肝心なのは先走っちまわねえこと。俺達くらいの親父が先走ると、肝心の本番でカチカチにならねえ、なんて情けねえことになっちまうぞ」
何の話をしているのだろう。一瞬理解が出来なかったが、ややってそれがいわゆる下ネタであることに気がついた。彼の男らしい笑顔が、下品なオヤジ臭いものに変わっていたからだ。
これがこの現場に必要とされる処世術、というものなのだろう。そんな気のない俺のリアクションも気にせず監督は続けた。
「まあ、事情は色々あるだろうけどよ、歩合制ってわけじゃねえんだぜ、この仕事は」
最後に「監督がそんなこと言っちゃあ駄目か!」などとおどけた調子で笑い飛ばし、彼は親しげに俺の二の腕をバシバシと叩いた。指先まで覆われた独特のコンプレッションウェアの、すべすべとした触感が俺の二の腕を撫でるのを感じた。
「なんにせよ、困ったときはお互い様だ。うちのモットーはダンケツだからよ!」
更に俺の肩に手を回し、監督は続けた。
「言いたくねえことは言わなくていいが、協力はするぜ、男同士、親父同士、ここはしっぽりダンケツしねえと」
耳元すぐ近くで、低い男らしい声が聞こえた。
俺は頷いた。
「…………すみません。それじゃあ……いったん……休憩させてもらいます……」
「おう、そうかそうか、そうしてくれ!」
俺の言葉を聞き遂げて、監督は最後に俺の上腕三頭筋を撫でて去っていった。
「…………。ありがとうございます」
俺はヘルメットを脱ぎ、去りゆく監督に深く頭を下げた。
そうだ。
俺の筋肉がどうした。体力がなんだというんだ。
そんなことにはなんの意味もない。
俺が今すべきことは、金を稼いで、借金を返し、息子たちを……そうだ、息子たちが今まで通りの人生を続けられるようにすることだ。
俺は観念したように腰を下ろした。蛇口を捻り、タオルを冷たい水に晒す。額、首筋、タンクトップからはみ出した腋汗に至るまで拭き取って体を冷やす。
俺はここでは新人なのだ。素人が無理はするもんじゃない。
最後に二の腕を拭いながら、そこがまた妙に熱っぽい事に気がついた。
監督に掴まれていた部分だ。人肌の予熱がまだ残っている。
……それにしても、この現場は少しだけ妙だ。
俺のような、昔ながらのタンクトップにニッカポッカという格好をしている人間が一人もいない。
監督を含め、周囲で働く作業員たちは皆、まるで申し合わせたかのように、身体にピタリと吸い付く黒い「コンプレッションウェア」を着用していた。
伸縮性のある光沢を帯びたその生地は、第二の皮膚のように彼らの肉体を包み込んでいる。
盛り上がった大胸筋の谷間、浮き出た腹筋の凹凸、太い血管が走る前腕。彼らが動くたびに、黒いウェアの下で筋肉がうねり、汗が光る。誰もかれもが、ボディビルダーか格闘家のような異常なまでの肉体美を誇っている。
それこそ、俺の体力や筋力が埋もれてしまうくらいに。
「いかんな、妙な対抗心はもたないと決めたばかりだろう」
俺は自虐的に呟いて、もう一度顔面にタオルを押し当てた。
冷やしたはずのタオルはもう生暖かくなっており、おまけに俺の汗を吸って臭かった。
そういえば、監督も……。親切なのはありがたいが、近づかれると臭いが随分とキツかった。
「うぶ……まったく馬鹿なことばかり、失礼なことばかり考えるんじゃない!」
俺はそんな自分を叱責するように、今度は頭から水を被った。
■■■■■■■■■■■■■■■
ズゥン、ズゥン、ズゥン……。
地底の奥深くから湧き上がるような、重く、腹に響く音が聞こえてくる。
巨大な杭打機が、鋼鉄の杭を大地にねじ込んでいる音だ。その振動がここまで伝わってきている。
俺は暗闇の中で思い出していた。
そうだ、今の俺は……納期に追われる工場の人間じゃない。現場の一作業員だった。
この音にも聞き覚えがある。ここは現場の近くなのだろうか。
不規則に重なる油圧ショベルの駆動音、バックするダンプカーの甲高い警告音、どこか遠くで風に乗って運ばれてくる、荒々しい男たちの怒声。
間違いない。ここは毎日俺が汗を流している建設現場の敷地の近くだ。
「……ぐ、ぅ……っ!」
俺は身じろぎをし、状況を打破しようと全身に力を込めた。
「うっ……くっ……」
だが体に力が入らない。うつぶせになって横たわっている事はわかるが、体がなにかに押し留められているかのようだ。
手枷や足枷で拘束されているわけではない。だが、妙に体が重い。何かもっと得体の知れない「なにか」で俺は両手両足を塞がれている。俺は手探りでその正体を探ろうとした。手のひらがすぐにその「なにか」に触れた。
「なん……だ……これ……は」
目の前に柔らかい壁がある。目の前だけではない、俺が横たわっていた場所も、背後も、腕にまとわりついているものもなにもかもが黒い。質量を持った「柔らかい何か」が、俺の身体を四方八方から押し潰すように包囲しているのだ。
指先に触れる感触は、コンクリートの冷たさでも、土の粗さでもない。
ぬるりと滑らかで、驚くほど伸縮性があり、それでいて強い弾力を持った素材。まるで、濡れた爬虫類の皮か、あるいは鍛え上げられた人間の筋肉そのもののような感触の「塊」が、幾重にも折り重なって俺の上にのしかかっている。
俺が動こうとすると、その「塊」たちは衣擦れのような奇妙な音を立てて互いに擦れ合い、より強く俺の肌にまとわりついてくる。その摩擦が生む生暖かい熱が、俺の体温と混ざり合い、逃げ場のない蒸し風呂のような空間を作り出していた。
徐々に頭がしっかりしてきた。それと同時に、己を取り囲む異常性で焦りを感じ始めていた。
「はぁ、はぁッ……なんだ、ここは……」
息苦しさに喘ぐ俺の肺に、酸素と共に暴力的なまでの「臭気」が雪崩れ込んでくる。
鼻腔の粘膜を焼き尽くすような、濃厚な雄の臭い。
何百という男たちが、限界まで筋肉を酷使し、毛穴という毛穴から搾り出した脂と汗。それらが化学繊維に染み込み、換気されることなくこの密閉空間で熟成され、煮詰められたような特濃の体臭。
それらが混然一体となって、俺の脳髄を直接犯したがっているかのように侵食してくる。
まずい。また意識が遠のいてきた。まるで拷問だ。口内にヨダレが溢れ、力が抜けてしまう。
拷問……。本当にこれは拷問なのか。
混乱する思考の中で、一つの疑念が頭をもたげる。
俺は、閉じ込められている。誰かの手によって。
まさか、拉致か?
思い当たる要素はあった。
「借金取り……か」
焦りが恐怖を生み、そんな言葉が喉から漏れた。
だがすぐにそんなことはないと、頭の理性的な部分がそれを打ち消す。
借金は……殆ど相殺したはずだ。
あの不審火。半焼した俺の工場。そこから膨れ上がった負債。立ち行かなくなった俺の人生は、俺自身の人生でもって打ち消したはずだった。
父から受け継いだ土地も、残った工場も、社員寮もすべて手放した。
油の染み付いた旋盤も、巨大なプレス機も、広大な敷地も。幼い頃から使っていた敷地内のブランコに至るまで、すべてだ。
俺は何日も悩み苦しみ、決断したのだ。
二代目社長としての誇り。 そんなものは、従業員の生活と、取引先への義理の前では紙屑同然だ。
頭を下げ、全ての資産を現金に変え、銀行への負債を完済した。手元に残ったのは、無一文の通帳と、この頑丈な身体だけ。
「俺を拉致する価値など、そんなもの残っているはずない……」
今の俺は二代目社長でもなんでもない。
ただ息子二人の学費のため、食費のため、汗水垂らして働く工事現場の作業員だ。
ならば……なおのことなぜ俺は、こんな暗闇の中にいるのだ。
現場の活気からいって、今はおそらく真っ昼間だ。俺は働いていなければならないはずだ。自分自身のためではない、息子のためにだ。
「思い出せ、何故、こんな場所に……俺は……」
□□□□□□□□□□□□□□□
「……ただいま」
俺が玄関のドアを開けると、古びた蝶番がきしんだ音を立てた。
今まで暮らしていた家とは比べ物にならないほど狭いアパートだが、それでも家族が待っている家にたどり着く安堵感だけは変わらなかった。
「う……ッ」
靴を脱ごうとした俺の太ももの裏側がピキリと悲鳴を上げる。
引きつりそうになった顔に俺はグッと力を込めた。深呼吸をして一つ大きく息を吐き出す。強張った表情筋を無理やりほぐして笑顔を作った。
「ただいまぁ!」
そしてもう一度、今度は大声をあげ、胸を張った。この家の敷居を跨ぐ時の俺は「くたびれた作業員」であってはならない。「頼れる父親」でなければならないのだ。
「おかえり、父さん」
奥から顔を出したのは、不安げな顔をした長男だった。
勉強していたのだろう、目がかなり疲れた様子だ。大学受験を控えた大事な時期だというのに、その表情はどこか暗く、陰りがあった。
「おう、遅くなったな。勉強は進んでるか?」
「うん、まあ……。それより父さん、大丈夫?」
息子の視線は俺の脚に向いていた。
隠しているつもりでも、子供というのは親をよく見ているものだ。成長が早い。ましてや工場を失ってからというもの、長男は妙に大人びてしまい、俺に気を使うようになってしまっていた。
「なぁに、これはその……ちょっとばかり躓いたんだ、それだけのことだ、そんなことをいちいち心配されちまったら、父さんお姫様みたいな仕事しかできなくなっちまうぞ」
「はは……父さんがお姫様か……ははは」
現場でのくだらない下ネタほどではないにせよ、俺の冗談は自分でもわかるくらい滑っていた。息子の笑い声も乾いていた。
――本来ならば、息子の成長は喜ばしいものだ。
だが、俺はこんな長男の態度をこそ恐れていた。
ある日のことだ。俺がヘトヘトで帰宅すると息子は「話がある」と真剣な面持ちで近づいてきた。聞けば「もし俺が手伝えるんなら、大学なんて行かずに働いたって……」ということだ。俺が帰宅する前から考えていたのだろう。息子の台詞は淀みなかった。
俺は慌ててその口を塞ぐように声を張り上げた。
「親父の仕事っていうのは……」
そこで声が大きすぎたことに気が付き、俺は少し抑えた。ここは一軒家ではない。俺の低い大声はお隣まですぐ響くのだ。
「……親父の仕事ってのはな、子供に心配かけさせないことだ。お前が俺のために夢を諦めるなんてことがあったら、それこそ俺は死んでも死にきれん。……頼むから、父さんにカッコつけさせてくれよ」
あの日以来、俺は家族に弱い自分を見せることをやめた。
意地でもなんでもいい。息子たちは工場を失った俺に残った最後の砦だ。せめて二人だけは大切に幸せに育て上げて見せる。そうさせてほしかった。
「――それにな、見てみろこの筋肉!」
俺は自分の不安を押しつぶすように、大袈裟な態度と声をだした。
両腕を曲げ、脳筋の男っぽく力こぶを作ってみせる。
日焼けした肌、盛り上がった上腕二頭筋、そして分厚い胸板。
昔から自慢だったこの筋肉に、精一杯の虚勢を張らせる。
「現場仕事のおかげで、若い頃よりデカくなったくらいだ。な、そうだろ。いざやってみると、身体を動かせて案外楽しいもんだ、今の仕事だって」
言った後で、いくらなんでも大袈裟すぎたものだと気がついて俺は照れて笑った。
嘘は昔から苦手だった。
「だからお前は、しっかり勉強していなさい。な」
俺は今更に自分が汗だくで酷い臭いがしていることに自覚した。腕を下げ、腋を隠した。そんな動作が面白かったのか、息子も少し吹き出した。
「……うん、そっか。父さんがそう言うなら、いいんだ」
息子は俺の嘘に気がついたのか、それとも俺の意志を汲んでくれたのか、いずれにせよ表面上納得してくれた。
「ああそうだ。お前は余計な心配せずに、自分のやるべきことに一直線でいいんだ」
「……わかった。ありがとう、父さん」
「よし。じゃあ父さんは風呂に入ってくるからな」
俺は息子の頭をポンと叩き、脱衣所へと逃げ込んだ。
ドアを閉めた瞬間、張り詰めていた糸が切れ、壁に背中を預けてズルズルと座り込みそうになる。
随分と不格好だが、ともかく情けない姿を見せることだけは避けられた。
俺は安堵とみっともなさと恥ずかしさでどっと疲労を感じながら、汗と埃で汚れたタンクトップを脱ぎ捨てた。
生地は汗で重く変色し、俺の体臭が染み付いている。これを洗濯機に入れるのは申し訳ないな、などと思いながら脱衣籠に放り込もうとした時、カバンの底に入っていた「あるもの」に指先が触れた。
「ん、……これは……」
取り出したのは、黒く光沢のある布の塊だった。
広げてみると、それは現場で他の男たちが着ていた、あのピチピチのコンプレッションウェアだった。
ああそうだ……確か帰りがけに、強引に渡されたのだ。
記憶が蘇る。
現場を出ようとした時、あの髭面の監督に呼び止められたのだ。
『なあ新人さんよ、いつまでもそんなくたびれたタンクトップじゃあもったいねえぜ。ほら、こいつを着といたほうがいい。俺達全員に配布されるんだよ。動きやすいし、怪我も防げる、案外暑さにも強いんだぜ、なにより、皆で同じ格好をすると、ダンケツってものが違うしよ』
そう言って俺が遠慮するより早く、強引にカバンにねじ込んできた。
「これは、なんだ、妙にデカい……、むう?」
手にとって広げて俺は目を見開いた。
大きいのは当たり前だった。それは上半身だけ、下半身だけを覆うものではなく、足先から首筋まで、全身を覆う一体化型のスーツになっていた。
ウェットスーツというか、全身タイツというか、皆下にはニッカポッカを着ているものだからわからなかったが、とにかくぴっちり全部を覆う形になっていた。
「し、親切はありがたいが……俺はこういうのは……どうにも……」
心のなかに浮かんだ言葉を沈めて、俺はとりあえずそれをカバンに押し戻した。
とにかく俺は古い人間なのだろうか。ある程度流行りなのはわかるが、これはさすがにどうにも気恥ずかしい。
確かに生地は上質なのだろう。指先に感じる滑らかな感触。ひんやりとした熱。どれもが悪くなかった。
だが、これを着た自分を想像すると、それだけで赤面してしまう。
柔道をやっていたようなガッシリとした、二人の子持ちの親父が、こんな真っ黒でテカテカのピッチリとした服を着るなんて……。
「さすがに、なぁ……」
そう呟きながら俺はそれを表、裏とひらひらと見つめていた。
…………。
見つめていた。
確かに俺は、この奇妙な服を元の場所に戻したはずだ。
それが何故か、俺の手にある。手に取って眺めている。
「う……むぅ…………」
なぜだか目が離せない。それだけではない、俺は鼻を近づけてみる。
……無臭だ。少しだけ化学繊維の臭いがする。まだ誰も袖を通してない新品。俺色に染まる前だ。
「だ、団結……と言われてもなあ」
そんな学祭じゃああるまいし、いい歳の男たちが同じ格好をしているからなんだというのだ。
しかし確かにあの現場の統率というか、効率というのはすごかった。長年務めあげてくれた職人が多数いる俺の工場ですら、あれほどの一体感はなかった。
俺の脳内に、現場で見ていた男たちの姿が蘇る。
黒い皮膚のようなウェアに全身を包み、鋼のような筋肉を躍動させていた彼ら。汗に濡れてテラテラと光るその姿は、どこか人間離れした逞しさがあった。
わざわざ拒む必要があるのか。
俺も、あんな風になるべきでは。
もっと強く、理想の親父になるべきだ。
俺は……気がつけば俺は、その生地に呑まれていた。
ひんやりとした生地がゆっくりと俺の指先を包んでいく。
俺は喉を鳴らした。
少しだけ。
試してみるだけ。
親切心を無碍にはできない。
そんなことをつぶやきながら、まずは片脚をゆっくりとスーツに通す。
室内灯の光を浴びて、鏡の中の「俺」の脚が黒く艶やかに光っているのが見えた。より逞しく、カットされた宝石のように俺の脚は輝いていた。
おぉ……。
気がつけば止まらなかった。
俺はもう片方の脚も、腹も、そして片腕も通していった。
素肌に触れるのとは全く違う感触。つるりとしていて、冷ややかで、それでいて体温を閉じ込めて熱を孕んでいる、人工的な皮膚の感触。
俺という存在が、スーツによって黒一色に染め上げられていく。
「ハァ……ハァ……!」
熱い。だが冷たい。
なんだこれは。着ていることを全身に感じるのに、それでいて裸のようだ。
ケツに食い込み、股間が膨らみ、雄の象徴が何もかも強調されていく。
俺はついにもう片方の手もスーツに収め、ついに全身真っ黒なタイトなスーツ……コンプレッションウェア姿になった。
下にニッカポッカも着てないせいで、なにもかも裸……もしくはそれ以上によく見えた。
胸元には派手な黄色で「団結第一」などという標語がついている。
俺も彼らの一員だ。作業員として、逞しい親父が完成されようとしている。
シュゥ……という微かな衣擦れの音が、静まり返った脱衣所に響く。
「うう……おおぉ……」
思わず、吐息が漏れた。
このウェアは、単に身体を締め付けているだけではない。俺の全身の感覚神経を鋭敏に研ぎ澄ませているのだ。
自分の指で触れているだけなのに、まるで他人に愛撫されているような、背筋が粟立つようなゾクゾク感が走る。
二の腕を掴み、ギュッと握りしめる。
内側から反発してくる筋肉の弾力と、外側から締め付けるウェアの圧力。その二つの力が拮抗し、俺の腕を鋼鉄のように硬く変えていく。
(いい……すごく、いい……んじゃないか)
俺は陶酔していた。
ゴツいむさ苦しい中年の身体が、この黒い膜一枚で、こんなにも力強く、そして美しいフォルムに生まれ変わるなんて。
俺は両手で自分の身体を抱くようにして、背中から腰、そして尻へと、黒い光沢に包まれた肉体のラインを確かめるように撫で回した。
撫でるたびに、生地の摩擦熱が肌に伝わり、身体の芯が疼く。
下半身を包むタイツの締め付けが、股間に心地よい圧迫感を与え、血流がそこに集中していくのがわかる。
これがあれば、俺はもっと強くなれる。もっと働ける。
もっと、男になれる――。
俺の臭いが早くも新品のウェアに染み込んでいくようだった。まだシャワーを浴びていない俺の肌が、ウェアを犯し、逆にこのウェアも俺を……犯していく。
「――父さん? まだ入らないの?」
不意に、ドア越しに息子の声がした。
「ッ!!」
冷水を浴びせられたように、俺の思考は現実へと引き戻された。
鏡を見る。
そこに映っていたのは、全身ピチピチの黒いタイツに身を包み、赤ら顔で自分の身体をまさぐっている、異様な父親の姿だった。
(な、何をやってるんだ俺は……!)
恐怖に近い羞恥心が爆発した。
もし今、息子がドアを開けたら?
「強い父親」を演じていた俺が、こんな姿を見られたら、全てが終わる。
「い、今入る! すぐだ!」
裏返った声で叫びながら、俺は必死にウェアに爪を立てた。
「くそっ、くそっ……!」
焦れば焦るほど、ウェアは頑として俺を離そうとしない。
「はぁ、はぁ……!」
片腕を引き抜き、腕を抜き、タイツを足首まで引き下ろして蹴り飛ばした。
ようやく全裸に戻った俺の肌には、信じられないほどの汗が浮かんでいた。
たった数分。それだけだったのに、ものすごい発汗性能だったのか、それだけ焦ったのか……もしくは…………。
脱ぎ捨てられた黒い抜け殻が、床の上でくしゃりと丸まっている。
ほんの少し着ていただけなのに、まるで肌の一部を脱ぎ去ってしまったかのように名残惜しい。
「馬鹿な……!」
俺は俺は逃げるように浴室に入った。
シャワーを浴びながら、俺は自分の身体を乱暴に洗った。
だが、どれだけ石鹸で擦っても、あの締め付けられた圧迫感と、つるりとした人工皮膚を撫でた指先の感触は、いつまでも消えずに肌の奥底に残っていた。
■■■■■■■■■■■■■■■
シャワーの水音が遠ざかり、俺は再びあの重苦しい闇の中に戻っていた。
「……はぁ……っ」
俺は目を開けた。いや、開けていたのか閉じていたのかもわからない暗闇の中だが、意識だけは冷徹なほどに鮮明に戻っていた。
俺は……震える手で自分の肌に触れた。触れようとした。
それを確かめるのが怖かった。
だが、無視することはできなかった。
右手の親指と人差し指で、左手の手の甲を俺は「つまんだ」。
指先に伝わるのは、汗ばんだ素肌の感触……ではなかった。つるりとした、滑らかで冷ややかな、あの人工的な感触。
あのコンプレッションウェアだ。
俺は今も、身につけている。
意識が一気に戻って来る。
まるでこの事実から俺を守っていた殻が砕け散ったように、感覚が、意識が、一気に全身を駆け巡る。
「あぁ……!」
俺は仰け反った。
首筋から足の先まで、俺はあのウェアに包まれている。
勿論それだけではない。
ここが何処かもわかった。
嗅覚が一気に鮮明になり、鼻の穴が広がり、感覚だけで理解できた。
男の臭い。脱いだばかりの……作業員たちの体が染み込んだような、あのスーツの……!
「ぐ、ふぐぅ…………ぬぅぅう……!!」
まるで閉じていた目を開いたように、鼻の穴から一気に雄臭が突き抜ける。
働き続けた男たちに、その体を直接擦り付けられているかのようだ。
男たちの肌、腋、首筋、尻、そして肉棒。
それらが俺を取り囲んでいるのだ。
これは壁ではない。
ここは、膨大な数の服の中だ。
俺が今着ているのと同じ、あの黒く光沢のあるコンプレッションウェア。俺はうず高く積まれたその山の中に、顔面も体も突っ込んで突っ伏していたのだ、俺は。
俺が感じていたあの「柔らかい重み」は、これだったのか。
俺が吸い続けてきた空気は、この抜け殻たちから発せられる残り香だったのか。
この一枚一枚に、かつてこれを着ていた男の、筋肉の躍動と、限界まで搾り出された汗が染み込んでいる。
現場で見たあの逞しい男たち。
彼らが脱ぎ捨てた「雄の証」が、今、俺の四方を埋め尽くしている。
俺は今、男たちのエキスの中心にいる。
この黒い塊に漬け込まれ、染み出した臭いが俺を締め付けている。
「どうして、こんなッ、く、臭えぇ、たまらんッ!!」
俺は黒い海の中を溺れまいとするように手足をばたつかせた。
本当に溺れている人間がそうであるように、上下の感覚が確かではない。
動くとより一層鼻の奥、まるで男をそのまま濃縮したような臭いが突き上げてくるのだ。
「あ……ぐ、ああ……!」
力が抜ける。
一刻も早くここから逃げねばいけないのに、何故かどんどんそのための力が奪われていく。
なんだ、これは、どうしちまったんだ、俺は。
家族のためになんでもすると誓った男が、どうして……男の臭いなんぞに包まれて……こんな。
「どうして、俺の、俺のチンポが……!」
俺は右手を自分の股間にやった。
ピッチリとスーツに包まれたそこは、どういうことだろうか、ガチガチにいやらしく勃起し、窮屈そうにスーツを押し上げていた。
「やめろ……俺、俺は変態じゃ……こんな臭いで、なぜだぁぁ…………!」
布と臭いにシゴかれて、俺はビクビクと痙攣していた。
□□□□□□□□□□□□□□□
俺は照りつける太陽を浴びながら、真っ黒い腕にセメント袋を抱えていた。
もう悪戦苦闘していたあの日の俺はいなかった。
力が漲る。活力が湧いてくる。自分の汗や熱を肌に感じるのが心地よい。
ブカブカのニッカと、色褪せた長袖シャツの下。そこには、俺の全身を隙間なく締め上げる、あの漆黒の「第二の皮膚」が隠されていた。
タンクトップの……洗濯が間に合わなかった。
それに……折角の好意を無視するなどできなかった。
俺は結局あの後、脱衣籠から取り出し、他の作業員達と同じようにコンプレッションウェア……といっていいのかもわかない全身タイツを身につけていた。
「これは怪我の予防だ」「疲労軽減のためだ」。そんな言い訳を頭の中で繰り返しながら。
背徳感は正直残っていた。
動くたびに、作業着の下で黒い化学繊維が擦れ合い、シュッ、シュッという微かな衣擦れの音が耳に届く。
汗ばんだ肌に吸い付いたウェアが、俺の筋肉の動きに合わせて伸縮し、まるで全身を愛撫されているような心地よい圧迫感を与え続けている。
そして、まだ午前中だと言うのに、男の臭いが籠もり始めている。
「いやあ似合ってるなあ、新人さんよぉ」
不意に、背後からねっとりとした声が聞こえた。
振り返ると、そこにはあの髭面の監督が腕を組んで笑っていた。
ギラギラと照りつける太陽の下、彼はいつものように、筋肉の鎧を黒光りするコンプレッションウェアだけで包んだ姿で、仁王立ちしている。
「ハァ……まぁ……せっかくいただいたものですから……」
「すげえいいじゃねえか、この筋肉の張り、見ているだけで力強さに締め付けられるみてえだぜ」
監督はニヤリと口の端を吊り上げ、俺との距離を一気に詰めてきた。
近い。
監督の身体から発散される熱気が、俺の頬を撫でる。
「嬉しいねぇ。あんたみたいな堅物でも、やっぱり抗えねえもんだな」
してやったり、というような奇妙な物言いで彼は言った。
一体何の話を。
そう問いただす前に、監督は俺の肩に太い腕を回し、強引に抱き寄せてきた。
「な、なんですか……!」
監督の岩のような大胸筋が、俺の二の腕に押し付けられる。
彼のウェアは既に汗でぐっしょりと濡れており、そのぬめりが俺の作業着越しに伝わってくるようだ。
「いい具合じゃねえか、へへ……へへへ」
彼の顔は明らかに興奮した様子だった。
おかしい。男同士の気のおけないコミュニケーションという程度を超えている。
「コイツを着てるとよぉ……自然に筋肉が盛り上がって、締め付けられて、盛り上がって、力が入って……まあちょっとばかり汗はかくがよ、それもまたいいんだ、体力も精力もどんどんついてくって感じでよぉ」
汗じみが浮かんだ腋、胸板が擦り付けられる。
「着てると、どんどんやめられなくなってくんだ」
彼は「まだ朝なのにもうこんなだぜ」と自分の脇を大きく広げ、その黒く湿った脇の下を、俺の鼻先に突きつけてきた。
ムワッという、湿り気と共に監督の臭いの塊が俺に向かってくる。
勘弁してくれ。そんな男の塊みたいな場所。臭くてたまらない。
真っ黒な中でも一際黒く見える。透けているわけもないのに、そこの先の体毛まで感じられるぞ。濃密な男の臭気だ。髭面の親父の臭い。働く男の臭いだ。同じ父親の……。
「あ……俺は……」
俺は……なぜそんなものを食い入るように見つめている。
口が自然に開き、鼻が開いている。そして股が勝手に――
「……っ、うぅ……」
俺は慌てて顔を背けた。
これは本来なら、吐き気を催して当然の悪臭だ。
だというのに、俺はなにをしている。熱気と共に俺の鼻腔が侵入され、脳髄を刺激されちまっている。
くさい。強烈に臭い。
だが、その奥にある「雄」の生命力に、俺の細胞が歓喜の声を上げる。俺は無意識のうちに、鼻翼を広げ、その臭いをさらに深く吸い込もうとしていた。
いかん。やめろ。どうしちまったんだ。
下に履いたニッカの裏側、黒いタイツの中で、俺の股間がズクン、と大きく脈打った。
何をしているんだ俺は。
いい年をした男が、男の脇の臭いを嗅いで興奮するなんて、どうかしている。
「なにを、しているんですか、こんな……冗談は……」
「ハハッ! 冗談? 冗談でこんな事すると思うか」
そう言いながら彼はベルトに手をかけた。
「な――っ!! お、おいこんなところで何を、アンタ!」
俺が制するのも聞かず、監督はニッカをずり下げ投げ飛ばした。
あのニッカの下がどうなっているかなどわかりきっていた。
なぜなら俺も、同じ格好をしているのだ。
「おぉ♥ おぉお、やっぱこれ、これたっまんねえーーーー♥」
真っ黒なコンプレッションウェア姿一枚になった監督が、周りに聞かせるような大声で吠えて仰け反った。
「おぉッ、こ、この、筋肉に染み込むような風の感覚が、ハァ……も、もう病みつきだぜぇ♥」
股を開き、股間の膨らみを俺に突きつけるように腰を突き出している。まるで誘うかのような、卑猥な動きだ。目が離せない。
「や、やめてくれ! 俺は……俺はそんな趣味はない!」
俺は後ずさって周囲に身の潔白を示すように叫んだ。頭に浮かんだ単語を押しつぶす。
……俺は違う。俺はこんな変態に襲われているだけなんだ。
他の作業員に誤解されないように俺は右に左に聞こえるように言った。そのつもりだった。
「なっ……あっ……」
俺は言葉を失った。
気がつけば俺がいたのは、昨日までの現場ではなくなっていた。
誰も彼もが、ニッカを脱ぎ捨てていた。
自分を偽るのなどもうやめたように。俺という異物が消えて清々したというように、全員が全員、同じピッチリとした黒いスーツ姿で、ニヤニヤした笑みを浮かべて俺を見ていた。
「ど、どうだ、アンタも……早く俺みたいに……へへ」
監督はゆっくりと、俺に見せつけるようにポーズをとった。
両腕を頭の後ろで組み、胸を大きく反らすアブドミナル・アンド・サイ。
黒光りするウェアが極限まで引き伸ばされ、腹筋のブロックがボコボコと浮き上がる。
彼が力を込めるたびに、全身から湯気のような雄臭が噴き出し、俺を包囲していく。
「見ろよ、見ろよォ。どうだこの汗。あんたも本当は、こうなりてえんじゃねえかあぁぁ……?」
監督の放つ圧倒的な肉体の輝きと、濃厚な雄の臭い。
それに呼応するように、俺が着ているウェアの締め付けが、ますます強く、そして甘美になっていく。
俺は必死に首を振り、視線を逸らそうとするが、目が離せない。
右からも左からも、土埃に混じって強烈なオス臭が漂ってくる。
「ハァッ……ハァッ…………!」
俺のニッカの中の雄竿が、まるで臭いに引きずられるように硬くなっちまっている。
男同士のあの格好に憧れるみたいにフル勃起だ。
現場中俺を魅了する臭え香りで包囲さている。逃げられねえ。足が動かねえ。
どうすればいんだ、俺は、父さんは、頼む……誰か。
現場の喧騒が遠のき、監督の荒い息遣いと、俺自身の激しい鼓動だけが耳に響いていた。
■■■■■■■■■■■■■■■
「あぁ……ハァ……ふっ、ンンンッ」
俺はどうしてしまったんだ。
思い出すのがどんどん異常な記憶になっていく。
息子の顔や責任、仕事より、あの臭いとチンポが頭を支配していく。
あの……いや「この臭い」だ。
俺の全身を包み込む、男たちの熱い魂のようなチンポ臭。
「チが……う、俺は……俺は、こんな、もの……こんなもの……」
俺は両腕を懸命に動かし、自分の脳を掻き分けるようにして布の海を泳ぎ始めた。
「はぁッ、はぁッ、はぁッ……!」
俺は必死に藻掻いた。
自分を否定するように、我武者羅に体を動かした。
全身が汗でずぶ濡れだ。心臓が早鐘を打ち、喉がからからに渇いている。
そうして目の前の布の海をかき分け、俺はついに光を見た。
そこは夕暮れのプレハブ小屋の中だった。現場の音が聞こえたのは当然だ。ここは……あの現場の中なのだ。
「うっぷ……おぉ……うぉぉ…………」
俺は化け物から逃げたきたかのように肩で息をしながら、四つん這いになって這い出した。
振り返ってみると海のように感じてた布も、さして大袈裟ではない塊だった。
男たちの抜け殻が、まるで獲物に巻き付いた蜘蛛の糸のように俺の足に絡みついていた。俺はそれを足の力だけで振り払うと、ソコから逃れるようにさらに這った。
少しだけ空気が流れている。どこかの隙間から風が入ってきているようだ。
俺は床に膝をつき、荒い呼吸を整えようとした。
「……おさまれ、おさまってくれ……」
下半身は今でも痛いほどに張り詰めていた。興奮でピッチリとした黒いスーツにガチガチの肉棒を浮かび上がらせている。
あの日の監督のように、ビンビンに天を突くチンポだ。汁まで垂らしている。そこからはあの監督と同じような雄臭を放っている。
「ハァ……あぁ……俺も、こんな……俺まで……」
あの繭の中で、何百人もの男たちの汗とフェロモンを吸い込み続け、全身を黒い皮膚に愛撫され続けた結果、俺の息子はかつてないほどの硬度で勃起するようになってしまっていた。
そしてそれが、たまらなく気持ちいい。
頭の奥底がじんじんと痺れて、何も考えられなくなっていく。
あれほど必死に逃れようとしたのに、体が勝手にあの「雄の地獄」を悦楽として受け入れている。
俺は震える手で自分の股間に触れた。
薄い生地越しに伝わる熱と脈動。それを手のひらで確かめるだけで、背筋に電流が走る。
「くそっ……、何なん……だこれは……あぁぁ」
俺は自分の浅ましさを呪いながら、それでも快感に抗えず、無意識のうちに床に落ちていた「何か」を拾い上げていた。
それは、繭から這い出る時に一緒に持ち出してしまった、誰かの脱ぎ捨てたウェアの一部だった。
重く湿った黒い布切れ。
理性が「捨てろ」と叫ぶより早く、俺はそれを自分の鼻に、股間に押し当てていた。
「むぅぅぅうぅっ……!」
そして、声にならない喘ぎと悲鳴を漏らした。
冷たくて、ぬめりのある布の感触。そこに染み込んだ濃厚な汗の臭いが、熱を持った俺のイチモツを直接刺激する。
まるで、見知らぬ屈強な男に直に触れられているような、あるいは男の中に挿入しているような、背徳的で強烈な快感が脳天を突き抜ける。
俺はもう、自分を誤魔化せなかった。
俺は、この臭いに飢えている。この感触に溺れたがっている。
あの監督が言っていた通りだ。俺の中の「雄」が、理性の檻を食い破って暴れ出しているのだ。
俺はその布切れに顔を埋め、犬のように深く匂いを嗅いだ。
□□□□□□□□□□□□□□□
「なかなか強情だなぁ……」
親方の声が聞こえる。
勃起したチンポが俺を見下ろしている。
右も左もチンポ、チンポ、チンポだらけだ。
勃起した魔羅に浮かび上がる『男結第一』というわけのわからない標語が見える。
「なに……を、やめ、やめて、くれ……俺は、変態に、なりたく……ないぃ……」
臭いの牢獄に囚われながら、現場の大地に転がっていた。
かろうじて着ていたニッカに手が伸びている。
やめろ、やめてくれ。
俺は……違う、俺はこいつらとおなじになんてなりたくない。
そう思うだけで体が動かない。
「へへ……いいじゃあねえか、こんなもん邪魔だろう? もっと全身、俺と一緒になろうぜ、俺達と一緒だ、男結しようぜええ♥」
その声と同時にずるりと引き抜くように俺のニッカが脱がされた。
ついに俺も全身真っ黒なタイツ一枚だ。筋肉を強調して、チンポを見せつけるように勃起させている。俺のチンポにも同じ文字が浮かんでいた。『男結第一』。男と男が結びつき、気持ちよくなり、同じになる。
定められた、絶対の法。幸せになるたった一つのシンプルなルール。
「あぁぁ……違ううぅう俺は、俺は男結なんて……むぅ♥ しな、しないぃぃい♥」
「なんだなんだ、ほんとに堅物親父だなぁ……まだ抵抗しやがるのかよ」
監督が面倒くさそうに、だが楽しそうに呟いた。
「俺も多少抵抗したけどよ、今じゃこんなだぜ、あんたも楽になっちまえよ……な、なあ一緒にチンポ気持ちよくなろうぜぇ♥」
そういいながら俺の鼻に勃起した魔羅を擦り付けてきた。
「おごぉお臭えぇ♥ やめ、やめてくれえ雄臭ぇええ雄すぎるぅぅう♥」
頭を直に犯されるようなチンポの突きに、俺は地面に仰向けで仰け反った。
そんな俺にほかの作業員たちがわらわらと集まってくる。
「男結しようぜえ」「俺の臭いとおんなじになろうぜえ」「チンポたまんねえだろ」「俺たちと一生ここで働こうぜえ」
俺の魂を踏みにじるような言葉と臭いが、チンポの一突きと共に襲いかかってくる。
やめてくれ。
俺には大事な家族がいるんだ。
チンポの臭いなんか、汗の香りなんか、腋の雄臭さなんか興味はないんだ。
「おぉぉおホレホレッ♥ 俺を嗅げよ、俺に染まれ、俺になれッ♥」
そんな俺の抵抗を楽しむように、何本ものチンポや腋が俺を包みこんでいく。
「スゲ……すげ、変えてくのたまんね、俺みたいに洗脳されちまえ、されちまえッ♥」
監督の興奮しきったチンポが、作業員の腋が、男臭いケツが俺の全身を犯していく。
「おぉぉお洗脳汁出すぞ♥ くっせええぞぉおお♥♥ 男結♥ 男結ぅぅう、男同士で男結第一ィィイ♥♥」
「ンンングウウンンンンッッッ!!!!!」
気持ちよさそうな痙攣に混じって、監督のチンポが俺の顔面にビッタリと引っ付いた。次の瞬間、鼻の穴に流し込まれるような臭いの塊が注ぎ込まれた。
「やめ、くせえええええ♥ 臭すぎるぅぅうあ、あたまが、おかしぐなっるうううぅぅう♥ やめ、やめろぉおぉお゛♥」
俺は両手両足をバタバタをさせながら藻掻いた。
黒い海が、白い臭いが、俺を包みこんでくる。
頭が沸騰する。意識が遠のく。チンポだけがバキバキに勃起していく。
「よっしゃ、この親父さんを俺達で包みこんでやろうぜぇ♥」
ビクビクと死にかけの虫のようになっている俺に、そんな声が落とされるのを聞いた。
ばさりと、汗でじっとりと湿って半分液体のようになった黒いものが覆いかぶさってきた。
すぐにわかった。
監督がたった今まで身につけていた作業着。コンプレッションウェア。スーツが俺を包んだのだ。
「出る頃には、すっかり……染み付いてるだろうよ♥ 男結第一ッィィィイ♥♥」
俺はその声を聞きながら意識を失った。
続く
