「大尉殿、この戦い。我々は負けますよ」
「――貴様、何を言っているのか、分かっているのか?」
西宮奉文と言う男は時折、気を違えたようなことを平然と口にするから、いつもの病気かと桐島は訝しんだ。
だが、それにしたって言って良いことと悪いことの分別すらつかなくなるとは、いよいよもって手遅れかもしれない。
「冗談を言っているつもりはありませんよ」
西宮の目の奥が昏く嗤う。
西宮奉文――陸軍少尉。桐島紘一の部下であり、切れ者であり、隊内一の事情通である。
大政奉還の後に頭角を表した金貸しの末。金勘定ばかり教わったろくでなしだと自らを語るが、桐島は彼を高く買っていた。
他の者とは見えている視点が違う。桐島ともだ。
故に意見が対立することもあるが、少なくともこれまでは害意や悪意でのことではないことは確かだ。
その切れ者の頭のネジがあるいは吹き飛んだのではないかと疑いもするほどの発言だった。ゆえに、素で心配が先に来たのだ。
「今日は雪が降るそうだ。疲れているだろう。どじょう鍋の店でもどうだ」
桐島は軽口で部下を気遣う言葉を言っては見せるが、西宮は自らの乱心を否定する。
「僕はいつだって正気です。狂っているのはこの世界です」
ぞくりとした首筋を這う狂気を孕んだ言葉。西宮の声は底冷えする室温よりも冷たく断じる。
この男は何が見えている? 今、生きているはずの現実をどういう目で見ているというのだ? まるで、観劇をする観客が身儘に感想を言うような口ぶりだった。
「いずれにしてもだ。ここでは拙い。話があるなら場所を変えよう」
いいでしょうとも、と西宮は返す。
窓に雪が張り付き始める。昭和十九年の師走であった。
――東京都・浅草
連日降り積もった雪が街路樹の枝葉に重々しく乗りかかり、寒さでガラスは霜がかり、民家の軒先には氷柱が伸びていた。踏みしめた新雪が軍靴の歯に詰まる。
外套に張り付いた雪を落とした陸軍将校の二人は、初老の女の案内で店の奥へと歩を進める。二人の間に会話はなく、窓から覗く、一面に張り巡らされた銀雪の彩を見ることもなく座敷へと向かった。
「気の置けない店だ。好きに座れ」
「では、失礼して」
桐島が西宮を伴って訪れた店は、三畳から六畳ほどの座敷をいくつか備えた小料理屋である。
門構えには「どぜう」の赤ちょうちんが吊るされており、桐島が最初から連れて来るつもりだった店なのだろう。心地よく、暖かみがある店内は桐島が好むだけあり、ふわりとどじょう鍋の香りは鼻腔を柔らかく擽り、肌寒い時節で少々ばかり凍える身体を、身も心も暖かく溶かしてくれるようだった。
「大尉は煙草は……」
「…………」
「そういえば、付き合い以外ではやらんのでしたね」
バツが悪そうに桐島は笑う。
「付き合いの悪い上司ですまない」
「いえ。では失礼して」
懐から取り出された桐の箱には菊の紋。躊躇いなく封を切った西宮はそこから紙巻きを一つ取り出し、マッチで火を灯す。
「それで。先程の話はなんだ、西宮」
「なんだもなにも。この国は負けます。言葉通りです」
吐き出した紫煙が揺れる。
西宮の主張は変わらない。
「根拠はあるのか」
「大尉殿。アメリカとやりあうとなった段で、ハナからワシントンに日の丸を立てられるとお思いでしたか?」
「…………」
黙する。
まともな軍人であるのなら、最初の最初――海軍がハワイを攻めると決める前段階で、陸軍の軍人の大凡がアメリカを滅ぼしうるとは思ってはいなかった。
一部の市井の言葉に踊らされた狂い人でもなければ、八紘一宇は成し遂げられたとしても、太平洋の彼方の大国を灰燼にするなど不可能なことは目に見えていた。
それでも桐島紘一は帝国陸軍の軍人である。部下の正気を見定めねばならない。
「西宮。お前、アカかなにかに吹き込まれたか?」
「とんでもない」
桐島が問いかけると、西宮は軽く首を振り、指先で踊らせるようにして紙巻きの灰を振り落とす。
「ではなぜそんなことを――」
「――瑞鶴が沈んだとのことです」
西宮の答えに、桐島は言葉が詰まる。
「――確かか?」
笑みを浮かべたまま西宮は頷いた。
「海軍の捷号作戦は完全に失敗です。これで虎の子の航戦の過半が沈んだのですよ」
仔細こそ掴んではいないが、海軍が立案し陸軍も了承した決戦作戦だと桐島も知る所ではある。しかし、実施されたのは一月以上前の話だ。
その作戦が失敗に終わった。西宮の耳に届き、桐島が知るまでこれほどの時間がかかったのも、海軍の秘密主義が原因だろう。
もっとも、立て続けに主力空母を喪失したともなれば隠したがるのも無理はない。
航空母艦翔鶴がマリアナ沖に沈んだ。その凶報を知った衝撃は記憶に新しい。間を置かず、その同型艦である瑞鶴まで……。
航空母艦翔鶴、そして瑞鶴。その名は陸軍の人間でも知らぬ者はいない。
ミッドウェーで喪失した一航戦、二航戦に勝るとも劣らないと噂された鬼神が如き空母戦隊であり、まさにその名の通り、この国を護るくろがねの瑞鳥であったのだ。
「真っ当な戦闘さえなく、鴨撃ちでもするような有り様だったそうですよ」
「馬鹿な……」
「扶桑、山城もです。あれだけ海軍の連中が息巻いていた航戦も戦艦も海の藻屑です」
ハッ、と言うどちらともない笑い。
かつての連合艦隊旗艦や御召艦をやった艦すらも沈んだとなれば、海軍の連中が苦渋に歪む顔が浮かぶ。
「だがまだ我らが居る。であれば、負けたとは」
「現実を見てください、大尉」
咎める声。西宮の言葉は強い。強いが、その「目」は嗤ったままである。
灰皿から立ち上る煙が桐島の目を霞ませる。だが――
「現実? 見えているさ」
「本当、でありますか?」
「何が言いたい、西宮少尉」
部下に値踏みされている、桐島紘一にとって初めてのことである。
鋭く睨む桐島に対し、西宮はフムと嘆息した。
「我々は四方を海に囲まれている。だからこそ海軍の連中がいなければ、戦争が出来ない」
「面倒なことだ」
煙草の煙が揺らめく向こうで西宮は頷く。
「ええ、僕もそう思いますよ。尻に火がついた連中はついに『大和』を出すそうです」
海軍が呉で巨大な艦を作り、「大和」と名付けられたと言うことくらいは桐島も承知していた。
大げさなくらいに仰々しい名をつけたものだと耳にした折には一笑に付した。
「噂に聞く決戦戦艦とやらか。どれほどのものなんだ」
だが、いよいよその秘密兵器を引きずり出すとなれば、西宮のこれまでの話も筋が通って聞こえる。
「山をも吹き飛ばす主砲と豪語しておりますが、アテになるのかどうか」
「口ばかりだな、海軍の連中は。最強、無敵と喧伝して回った比叡に霧島、扶桑、山城が沈んだんだぞ? 大和とやらも如何ほどのものか」
言っておきながら、桐島は僅かに片眉を上げた。それを見逃さない西宮は、何処か微笑みを深くして、喉を鳴らして笑うように言葉を紡ぐ。
「だからですよ、大尉」
西宮は一言告げると、釘を指すように二の言葉を続ける。
「『無敵』なんて言葉は形骸だ。不滅なんて物はありはしないのです」
そも、なぜここまで戦局が傾いたのか。
戦端の始まりは盧溝橋からである。
果たして、最初の一発はどちらが、誰が、どこに、誰に撃ったのか。
神のみぞ知る物であるが、いずれにせよ火蓋は切って落とされ、亜細亜は動き始めた。地獄へ向けて。
満州、仏印、ビルマ。兵隊さん兵隊さん萬々歳。
軍靴が、車列が、履帯が、道を作る。道を往く。道を行く。
連戦連勝。殲滅。撃滅。壊滅。解放。支配。運用。自治。自立。
正義だった。気高く、潔白で、慈愛に満ちた道であったはずなのだ。
陸も海もなく高揚していた。だが、軍内以上に国内が狂喜していた。
それは鉄と油を得るため、欧州米国依存からの脱却と言う大義名分から次第に逸れ始めていた。
あそこを取ればアルミが取れる。スズが取れる。銅が、ニッケルが、石炭が、ゴムが、取れる。
耳聡い商人たちがこの状況を見逃すはずも無かった。
財閥、軍需産業、利権、汚職、癒着、口利き、賄賂。
野糞に群がる羽虫が、大東亜という地図に線を引き始める。
歪む。歪んでいく。
子どもの駄賃のつもりで商人の出した金は、軍人にとっては大金だ。
囁かれる言葉に踊る。兵隊が踊る。操られ、踊らされる。
目標に無い攻撃先、予定にない占領先。
それでも連戦連勝を重ね、気付けば最初に描いたはずの版図の面積の数倍にまで膨れ上がり、もはや誰の欲なのか分からぬままに肥え太り、針の一刺しで破裂する風船となっていた。
では、そこまで拡大した戦域はどうなるのか。西宮は断ずる。
「木の根、草の根を食べている、と聞きました」
「犬猫どころか虫以下ではないか。風説だ」
彼は構わず続ける。
「大尉。南方は地獄です。虫すら口にせねばならぬほど前線は疲弊している」
「皇軍だぞ。陛下の臣民、兵士がそんな生き地獄の有り様のはずがない」
「大和魂で腹は膨れません。敵は殺せず、戦車は潰せず、飛行機は落とせず、船は沈められぬのです」
「デタラメだ」
「噂と言うには否定しがたいほど多方面から聞こえるのです。陸軍も、海軍も等しく畜生道に堕ちているのです」
桐島も譲らなければ、西宮もまた譲らない。
「人が人にそのような仕打ちを行うなど、あってはならない」
「我々は……我々の仲間は、一握りの商人と軍人に踊らされたのです」
襖の向こう、ぐつぐつと言う鍋の煮える音がした。
とっさに西宮は声色を変え、対面の鬼に呼びかける。
「やあ、料理が来そうですな、大尉」
「……そのようだな」
戸を叩く音。醤油と出汁の煮える香りが、煙草の臭いを押しやる。
二人の間にある台の中央に、身の太ったどじょうを敷き詰めた鉄鍋が置かれる。
「女将、酒は結構。良き所でまた顔を出してくれ」
桐島の代わりに西宮が告げ、再び三畳ほどの座敷に沈黙が訪れる。
「冷める前にいただきましょう」
「その前にだ」
目を細めて桐島は問う。
「陛下の御聖断さえあれば、我々八百万の魂で米英など――」
「……市井の言葉に踊らされているのは大尉ではないですか?」
火から降ろされてなお、鍋はぐつぐつと音を立てる。
「あなたは聡明な人だ。僕の言葉が分からないはずもない」
「私の正気を疑うか?」
「とんでもない。ですが、曇っていると申しているのです」
湯気に煙る。視野を覆う互いの顔。
「私が? 見えているさ、戦いの趨勢くらいは」
「神風が吹く、とでも?」
「違うな。起こすのだ。我々で」
「どうやって? 蒙古を追い払ったような天津風を待つおつもりですか?」
「天の裁きなど待ってはおれぬ。今すぐにその邪智を働かせた者を斬り伏せれば良い」
「――狂っておられる」
「では、お前には何が見えている? 何を知っている、西宮奉文」
桐島の握りしめた拳が震える。
「気を違えているのは今やこの国全てです」
「ならば、我々はどこで間違えた? どこから負けた? アッツ島か? 飢島か? ミッドウェーか? それともマレーとハワイを攻めた時からか!?」
あるいは満州か、奉天か日本海海戦まで遡るか、そう問うよりも早く、冷たく、言葉を遮る。
「そんなことは誰もが承知でしょう」
西宮は桐島に構わず鍋に箸を伸ばした。
「日の本の間違いは、ペリーがやってきた時からなのですよ、大尉」
空になった鉄鍋が冷たく座する。
結局、ほとんどを西宮奉文が平らげ、桐島は西宮によそわれた小鉢の一杯すら手を付けずに煮えたどじょうは冷え切っていた。
しん、と雪が座敷の外で積もってゆく。まるで蛍火のように落ちてゆく雪は、今も海の向こうで消えゆく儚い魂のようにも見えた。
西宮は新たな紙巻きに火を灯し、天井を見上げる。
「――西宮」
「なんでしょうか、大尉」
「煙草をくれ」
「――承知しました」
真新しい紙巻きを手に取り、西宮は吸口を桐島に向ける。
受け取った桐島が口に咥えた所で西宮はマッチを擦り、火を灯した。
直後である。
桐島は吸い込んだ煙で盛大にむせ返り、咳き込む。
「大丈夫ですか、大尉」
「……すまない、やはり慣れないものを口にするべきじゃあないな」
天皇陛下から賜る煙草は辛口である、とは頭では理解していた。
しかし、実際に飲むとなると、付き合うで口にする安物とは段違いであった。
咳き込みを抑えながら、自嘲じみた笑みで返す。
「いえ、吸いたくなる気持ちは分かりますよ――しかし、ですな」
ふむ、と西宮は僅かに躊躇うように考え込み、言葉にする。
「大尉、もしかして肺を患っておいでですか?」
「――――――――」
「ああ、いや、気のせいでしょう。喘息や肺病の陸軍軍人などいるはずもない」
前髪の隙間から覗く桐島の瞳孔が餓狼のように、軽薄な態度を取り続ける西宮を捉える。この男は何者か。一体、どこまでわかっている?
「きっと冷えたのでしょう。そうに違いない」
それをけろりと躱し、西宮は嗤いながら続ける。
「やはり、酒でもいただきましょうか。こう冷えなら熱燗の一杯でもやれば腹の底から燃えるものです」
「――西宮」
「はい?」
「さっきの話だがな。確かにこの国は狂っている。狂い、奔っている」
「ええ、まぁ、そうでしょう」
「ゆえに、正さねばならん」
「……何をです?」
今度は、西宮が異変に気づく番だった。彼の眼差しに宿る、決意と呼ぶにも恐ろしい何かに。
「総てだ」
桐島は手にした紙巻きを握り締める。刻印された菊の紋が歪む。
「総て、総てを正さねばならぬ」
「ですが、正気で狂気を正せるとはとても思いませんな」
「ならば狂ってやろうじゃあないか」
火の灯ったままの紙巻きを、桐島紘一は握り潰す。拳が灼ける。それ以上に――
「狂ったこの国を、私達の狂気で正すのだ」
――炎が灯る。燻った桐島紘一の中の何かが、狂い火に燃える。
それはまるで、降り積もる雪を溶かす熱を帯びたようでもあった。
ああ、そうだ。その言葉を待っていた。言葉にせずとも表情だけで西宮奉文は応える。
西宮の吸いさしの煙草は、灰皿の上で燃える。刻まれた菊の紋が灰になろうとしていた。
今回は協力してくださっている方に執筆していただき、一部編集したものです。すみません、今月も本編更新など遅れておりますが、CGは描き進めております……。画像は本文に出番がなかった本編CGのアメリアさんです。
肉バキューム
2024-08-03 23:05:30 +0000 UTCリスワン
2024-08-03 11:34:58 +0000 UTC肉バキューム
2024-07-30 17:19:41 +0000 UTC風人ウライ・03
2024-07-29 01:15:16 +0000 UTC