(本編の当該箇所は長くなります。今回はごく一部のシーンのみ)
西暦1945年9月17日。その日は、酷い嵐だった。
「......今日は雨が強いわね」
夜の世界を豪雨が覆う。その音はこの当世風の洋館の中にも届き、吹き付ける風がガタガタと喧しい音を立てる。暗雲垂れ込める接収した洋館の一室、客間に座る異国の少女は窓から外を見つめては溜め息混じりにそう呟いた。
「この分だと長引きます」
傍らに立っていた下士官の青年が珈琲を淹れてやってきた。少女は軽くお礼を言い、焼き立てのパンにゆっくりとバターを塗った。一体どれほどの日本国民がこの食糧にありつけているのだろうと、そんな考えが脳裏をよぎったが——今はとりとめのない感傷に浸っている場合ではない。僅かな逡巡の後、払拭するように首を横に振った。
「あの人もこんな中で大変ね、さっき聞いたの。なんでも、土砂崩れがあったんですって」
「……既に、提督殿はスプルーアンス閣下と合流されたことでしょう。ご心配かと思いますが、今宵は我々が護衛いたしますので、少尉殿はお休みになってください」
「ありがとう、アレックス。でも自分の身は自分で護るわ。私がこの国に来るって、そう決めたんだもの。......それに、此処では何が起きるか分からないものね」
下士官の青年に振り向いたのは、年若くも才女という言葉がよく似合う、凛然たるコーカソイドの美しい娘だった。特例の軍制服に身を包み、あどけなさを残した面立ちをしているが、女性らしい豊かな曲線美を描きつつも細く均整の取れた華奢な長身は、あたかも丹念に造形された美術品のよう。愛らしくも非実在的な存在感は、古めかしい洋間の一室においては風景のように映えている。ふわりとした金糸の毛先を揺らしてまたも窓の方を見つめると、彼女は静かに珈琲を口に含んだ。
「日本人……本国では卑怯で野蛮な猿だと喧伝されていたけれど、来てみたら惨いものね。ここには瓦礫と灰燼しかない」
「……我が国が全面的に焼きましたからね。自分も各所の視察に同行しましたが、何処を取っても酷いものです。横浜にも大規模な空襲を行ったとはいえ、この辺りは東京と比べればまだマシですが……」
しばし沈黙が走る。先の大戦はそれは凄惨を極めたものだった。通常の国家ならばとっくに降伏しているであろう幾つものポイントを超え、最終的には戦略爆撃機で国土全てを焼き尽くして、ダメ押しとばかりに新型爆弾を二発も叩き込んだのだから。それは国際法に違反した一方的な実験と支配権の顕示であり、人道に反することは誰の目にも明らかだった。帝土を踏んだ彼女は、それでも現地の余燼を見て自らの知る神に救いを求めたものだ。帝国本土への空爆については、辺境ですら航空機の製造会社があったという理由で爆撃の対象となったのだ、どれほどの無辜の民の命が奪われたのか想像すらつかない。かつて人々が暮らした名残から見るに、無数の焼夷弾が投下された瞬間は、彼らにとってこの世の地獄であっただろうと、そう思わずにはいられない。故にこそ、アメリアは引け目とともに、少し異質な恐怖を感じてしまっていた。
「……......お父様に、何かあったら……」
「大丈夫ですよ。ハルゼー閣下なら、いくら殺したって死なない人ですから。笑って待っていましょう」
アレックスはからっと笑い、ぽんと彼女の肩を叩いた。普段ならば上官として窘めていたであろう行動と言動だが、今の彼女は曖昧な表情を浮かべるばかりだ。
「......そうね。ごめんなさい。雨が降っていたから、柄にもなく繊細になっていたかも」
知らず、腰のM1911A1に手が伸びていたらしい。無意識に触れていた拳銃グリップが、ほんの僅かに汗ばんでいた。その気持ちの悪さを手袋越しに感じ、すぐに手を離す。
「それにしても、また台風だなんて、あの人よっぽど嵐に好かれているのね」
「全くです。去年のフィリッピン沖も相当酷いものでしたが......今日の空気は、いやに気味が悪い」
奇妙なことに、此度の天気について二人は同じ印象を抱いていた。まるで誰かの呪いのようだとさえ思うほどに、天には恵まれなかったようだ。相変わらず大粒の雨が屋根を叩いている。普段ならば明瞭に見える遠景の山稜は暗く、重苦しく曇っていた。だが、それを退けるように、青年は力強く断言する。
「ですが、徹底的に潰したのですから、今更何か起こるわけもありません。起こす意味がないのですから」
「......ええ。どうせ、何もかも全て、終わったんだものね」
どこか諦観したような深い海色の瞳で、少女は呟いた。そう言って見つめた窓の先——雨の紗幕に遮られた神国の姿は、辛抱強さの成れの果てと言える無人の広野でしかなく......無数の雨粒は、滂沱の涙のように見えた。
そう、何も起きるはずはない。だが。
何故かしら。どうしようもない程に、胸騒ぎがするのは……
西暦1945年9月17日。その日は、酷い嵐だった。まさしく、運命と形容されるに相応しい長い夜であった。
遥か彼方より風の音が咆哮のように吹き荒び、雨粒が大地を貫かんばかりに打ち付けられてゆく。誰ひとりとして居るはずのない、その常闇を縫うように寡兵が一点を目指してゆっくりと歩み進んでゆく。それは亡霊か、死神か。身体を冷やす大粒の雨と横殴りの風を気にも止めず外套を激しくはためかせてそれらは進む。
景色は雨粒の紗幕で歪み、帳が落ちきった今は何も見えはしない。ぬかるんだ大地に刻まれた幾つもの轍がすぐに消えてゆく。雨と風を引き連れた皇国の幻影が何処より出でたのか......闇の彼方には足跡すらなく、それを知るものはいない。ただ、ひとりの男が、静謐をもって秀麗な口唇を開いた。
「見えたな?あれが、我らの攻略目標だ」
——闇を稲光が切り裂いた。天を裂く閃光が地を照らし、その一瞬の明滅が彼らの輪郭を鮮明に映し出す。露わになるのは爛々と輝く戦鬼たちの眼光。先頭を征くは、漆黒の礼服に身を包む青年将校。その表情は陰影に隠されて窺い知れないが、端正な口元は固く引き結ばれている。長い睫毛を伏せた彼はゆっくりと、視線を後ろに向けた。
「......私が為すことはどのような理由であれ正道のものではない。しかし、これは、我々にとって最後の機会なのだ」
低く静かな声音で、彼は言った。地を打ち付ける雨音をものともせず、淡々と紡ぎ出される言葉はどこか機械的で無機質であるものの、言葉尻には確かな熱量が込められていた。
「今こそ、天に代わりて不義を討つ時が来た。御楯乃会の名の下に、祖国再興の礎を築くことこそが我々の使命である」
それに呼応するように、彼の背後に続く青年たちもまた無言のままに首肯を返し、連なる士官候補生たちが一斉に挙手の敬礼をした。そして、彼らは一糸乱れぬ動きで隊伍を組み上げると、前を見据えて総てが終わったはずの“神国”を再び進軍し始めた。まるで、何かに駆り立てられるように。冷めきった身体は鉄血の熱を秘め、今この時より決戦に挑むように。彼らを先導する近衛師団の男は雨に濡れることも厭わず、底知れぬ闇をたたえた眼差しで前方を睨む。それは、あまりにも静かな行軍であった。導かれるように暗幕に吸い込まれて前進してゆく姿はまさに幽鬼であった。桐島は容赦なく吹き荒れる嵐の中で静かに、腰の鞘から軍刀を引き抜くと剣尖を進駐軍が接収した洋館に向けた。
「総員、奮励努力せよ!」
その号令とともに、亡霊の軍勢が怒濤の如く進撃を開始した。号令を受けた若き青年達は走る。瞋恚の炎の導くまま、ひとつの生き物であるかのように。鬼畜どものはらわたを、抜かれた皇軍の牙を、“背信”された御楯の魂を、闇から引きずり出すように。歪んだ大義の名のもとに掲げられた刀の切っ先が白銀の軌跡を描き、轟然と虚空を斬り裂いた————
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2022-12-30 09:18:40 +0000 UTC肉バキューム
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