SakeTami
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いつか、どこかで(本編外)



彼、キリシマコウイチは帝都の大通りに鎮座する西洋風のモダンな内装の中で落ち着かない様子でぼんやりと考えていた。あまりにも出来過ぎた偶然。あり得るはずのない喫茶店。だが、妄想ではなく実感として暖かな空気があった。

「……少しは落ち着いたようだな。大丈夫か? 気分は悪くないか」

「いえ、お構いなく……」

 ただ一つ言えるのは、彼の目の前にいる見るからに苦労していそうな帝国軍人が彼にとって幾度も恋い焦がれてきた人物の顕現であるということだった。朗らかに微笑しながら、遠慮するキリシマをその軍人、桐島紘一は見守っていた。

 自分と同じでありながら決定的に違う彼。八紘一宇を由来とした同じ名前を持ち、鮮やかに花開いたように近衛の制服を纏い部下を引き連れて帝都を歩いてゆく雄姿は、見知らぬ風景の中で困惑する彼の目線をただ釘付けにしたのだ。だが、同時に狂気が頭をもたげもした。


 あれは自分ではないのか? なぜ自分が目線の先にいるのか? では今ここにひとり佇んでいる自分はいったい何なのか?

揺れ動く意識の中で自己認識が砂となって崩れ落ちるその瞬間――彼を受け止めたのも、狂気をもたらした『理想の軍人』であった。倒れる身体をしなやかな腕で受け止め、傍らに控えていた部下と一言二言言葉を交わしてこうして喫茶店まで連れてきてくれたのだ。


「私も久々に来たのだが、ここはナポリタンが美味しいんだ。せっかくだ、ひとつ試しに食べてみるか?」

「いえ、どれも高額ですしそういうわけにも……」

「なに、金の心配ならいらんよ。むしろせっかくドルから替えてきた日本円に使い道を作らせてほしいところだよ」

 しばし曖昧になっていた学生がようやくぎこちなく表情を作るようになったのを確認した桐島は、何処か軽い調子でそんなことを告げた。

「……ドル? 米国の紙幣を持っているんですか?」

「ああ、それがどうしたんだ? 観光に来た在日アメリカ人も帝都で見かける昨今じゃ珍しくもないんじゃないのか」

 観光だと!? ――キリシマは衝撃を受けた。日本はアメリカに負け、全てを破壊されたはずだ。戦うことすらできず、祖国が壊滅状態に陥る様を見てきた彼にとってそのようになることなど到底信じることなどできないことだった。だが、桐島はむしろ目を見開く彼を訝しむように目を丸くしていた。

「い、いえ……なんでもありません」

「そうか。具合が悪かったら無理せずに言え。空元気は身体に良くないからな」

 狂っているのは自分か? 世界か?

もはや、判別さえつかなくなっていた。ハア、と静かにため息をついて落ち着くために俯く。その静寂の中、おもむろに一冊のノートが差し出された。

「そういえば、君さっきノートを落としたろう。渡し忘れてしまっていた」

「……ありがとうございます。中はご覧になったのですか?」

「さすがに内容は見てはいない。検閲の必要もないと判断したのでな」

「……ありがとうございます。これは僕が、思うことを書いただけの趣味のノートですので見られなくてよかった……です」

 狂気から覚めたようなキリシマは何処か卑屈に笑う。このノートの中身は自らの妄想を書きなぐっただけのものが溢れている。小説とも言えぬそれを見られるのは――自身のはらわたを晒すに等しい。だが、ノートを大事そうに抱える学生を見て軍人はむしろ感心したように目線を送った。

「ほう、随筆か。もしかして、文学を嗜んでいるのか?」

「はい。……男のくせに軟弱な趣味だとお思いですか?」

「何を言う。本というのは良いものだ、読めば読むだけ精神が豊かになる。私は著者という人種を心から尊敬しているとも。……それで、物書きをするのなら何か読んでいたりはするのか?」

 桐島の目が僅かに期待の色を帯びる。それを見て、キリシマはなぜだか正直に話したくなった。

「三島由紀夫先生の著作を。ひと通り読んでいます」

「三島先生か! 私もあの人の作品は好きだ。何が好きなんだ?」

「僕、は――」



「ああ、すまない。つい長く話し込んでしまったな」

 時計を見て桐島はバツが悪そうに微笑んだ。時刻はたっぷり一時間は経過し、飲んだコーヒーの杯数も結構な量が積み重なっていた。キリシマの側のテーブルにもパスタの皿と紅茶が入っていたカップがあり――対する軍人と話していた彼はしばし微笑していた。

「しかし君は若いのによくものを知っている。この私が時間を忘れて談笑するなどそうそうない」

「お褒めに与り光栄です、桐島さん」

「君はなかなか見どころがある。こちらから聞いてばかりですまなかったな。もしよかったら君も遠慮せずにいてほしい」

「遠慮せずに、ですか……」

 キリシマはしばし黙考する。どこか瞑想するように思案の淵に沈んでゆくが――やがて、意を決したように一つの質問をした。

「あなたは。どうして軍人を志したのですか」

 それはきっと、今もなお彷徨い続ける魂の声だったのだろう。縋るように、神託を聞こうとする敬虔な信徒のように彼は桐島にそう問いかけた。突然のことに近衛という頂に立った軍人は驚いた顔をする。だが、彼もしばし考え込み、答えを見つけるとまた軍人になりたかった青年を見据えて口を開く。

「私は昔から兵隊さんに憧れていたのだ。父が軍人であったから身近にそういうものがあったからでもあるが……実を言うと外を走り回れないほどに病弱だった私を虜にするには十分すぎるほど格好良かったんだ」

 返された答えは神託でもなんでもない、素朴なものだった。けれども、その子供らしい憧れはキリシマにとってはあまりにも、まぶしいものだった。

「思えば私は知識を溜め込み、自らを鍛えることが好きだった。父に課せられた訓練や学校生活の忙しさのせいでどうにも友達付き合いができない私にとって、黙して知識を語る本は病床に伏せっていた頃から私のためだけにいてくれる友のようなものだった。お前は軍人になるんだ、と父に繰り返し聞かされて訓練されたからな、とにかく大変だったが皇軍に入る為に必死に食らいついていったものだ」

「……お父上は文学への理解があったのですか? その、本を読んだり書いたりすることに何か言われたりはしなかったのですか」

「言われたというか、私の持っていた本はある日突然父が燃やしていた。どうやら日本男児が本の虫であることが気に入らなかったらしい。焼失した本と同じものを今も探しているが、外国の写本だったりと今なお全ては集めきれていない」

 キリシマは言葉を失う。……同じだ。彼もまた同じだったのだ。


だが、続く言葉はキリシマと桐島が決定的に違うことを残酷なまでに示すものであった。


「訓練帰りだったんだがその時ばかりは本気で怒ってな、つい、カッとなって訓練用の木刀でその背に平突きをお見舞いしていたよ。現職の軍人とはいえ丸腰で木刀を持っている相手に勝てるわけもない。父の身を以てそれまでの訓練の成果を報告することと相成った」

「……でも、父親から逃れることはできないでしょう。息子の反抗や悪感情など知れば、子殺しすらされる可能性が……あったのでは……?」

「いや、当主の財産でもあった蔵書を燃やしたことと、兼ねてから私へ行っていた虐待を咎められ父は速やかに別居させられた。あれから、本家の敷居を跨ぐことを許されず次に彼のことを知ったのは死別したから会えもしなかった。もし共に過ごしていたら、私が尊属殺人に手を染めていたかもしれん」

 キリシマは語る軍人の憂いを帯びた横顔に目が釘付けになった。それは憐れみ。余裕のある人間にしか抱くことのできない他者への優しさと悲しみの感情。陰る美貌はまるで、曇天の下に咲く紫陽花のように美しく感じられた。

「……あなたも、お父上とは確執があったのですね」

「ああ。息子である私は、彼の妄執と狂気を帝国軍人として否定してやることしかできなかったんだと思う」

「…………」

 長い、長い沈黙。重く沈んだ静寂。それはどこまでも続くかのようだった。


「――先の話の中で、君は虚弱な体質で試験に落ちたと言っていたな。……君は何故、軍人になりたいんだ?」

 桐島の質問がナイフのようにキリシマの胸中の奥深くをえぐりとる。

 なぜ軍人になりたいのか?そんなことはもう、語る意味も知る意味もない。軍人にならなければならないのだから。

「僕は……軍人にならなければなりません」

「……どうしてだ」

「そうならなければならないんです。僕は――」

 キリシマは自らの胸中を語る。それは恐らく、ほとんどが虚構と妄想に満ちたものだったろう。だが、彼は血を吐くように必死に目の前にいる理想の軍人に己の全てを吐き出してゆく。桐島は魂からの慟哭を静かに聞いていた。茶化しもせず、切り上げもせず、ただ静かに。

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