————ここが地獄でないのだとすれば、救いは何処にあるのでしょうか。
晩夏の日輪は沈んで久しく、帝国の空は漆で塗り潰したような闇に覆われていた。吹き抜ける風は生ぬるい。僅かに湿り気を帯びた空気は、間もなく雨天が到来することを予感させる。黒々とした暗雲が月桂を包む夜にありながら、市街を照らす営みの灯りは小さく、蛍火ほどに弱々しい。灯火への管制が解除されてなお、家屋から漏れ出る光量の少なさは、過日に終息した戦禍の甚大さを物語っていた。
「——なぜ、なのですか」
焼けた油脂と煤の臭いが重く立ち込める帝国のとある市街。宵に没した民家の一つから、掠れた男の声が響く。喉奥で押し潰された低い声音には、まるで何十時間にもわたって声を張り上げた後のような、酷い憔悴の気配があらわれている。机上に置かれた鈍色の燭台に火を灯すこともせず、夜の暗がりに溶け込んだ男は、自室の畳の床に額を擦り付けて、あたかも神前でそうするかの如く、罅割れた無電の前に平伏の姿勢を取っていた。傷だらけの筐体に、剥き出しになった電子回路。床に無数の部品を散らばらせた無電(ラヂオ)には、年来活躍した逸品の面影は残っていない。耳障りな雑音を垂れ流すことさえしなくなった、がらくた未満の塵芥を前に、男は神仏に祈りを捧げる敬虔な信徒のように首を垂れる。されど、男の口唇から紡がれる言葉は、祝詞でも経典でもなく、譫言じみた嗚咽ばかり。繰り返される懐疑の言葉には、筆舌に尽くし難い怨嗟の情念が濃く滲んでいた。
「我らとともに、戦ってくださるのではなかったのですか」
男は陸軍将校だった。国家君主たる聖上の大元帥陛下に忠を尽す、誇り高き帝国軍人であった。自国の置かれた窮状を理解し、迫る本土決戦に備えて、日夜修練に勤しむ憂国の士であった。敵の焼夷弾に肉親を焼かれても、男の戦意はいささかも減じることがなかった。戦地に赴いた朋友の訃報を耳にする毎に、男はますます勝利への執念を燃やしていった。男は死を恐れてはいなかった。
神州帝国の臣民は、死すれば英霊として神君の元に召し上げられる。
たとえ肉体が亡びようとも、男は魂が尽きるそのときまで、敵と戦い抜く所存であった。しかし、男の決意が果たされる前に、不滅と謳われた神州は、西欧列強に膝を屈した。
『——忠良なる帝国臣民に告ぐ』
陽光が燦々と降り注ぐ炎天の下、国家大元帥たる聖上陛下の玉音とともに、帝国の津々浦々まで敗戦の報が行き渡ったあの日から、男は深き失意の底に叩き落された。東亜に掲げた統一の大義は空と化し、臣民の犠牲の対価に得たものは、瓦礫と屍の山だけとなった。本土で静かに牙を研いでいた決戦兵力は、その半ばほども活躍の機会を与えられぬまま、解体を命じられた。いと貴き神君が玉砕を命ぜられれば、男には喜んで死地に飛び込むだけの覚悟があったのだ。聖上陛下が霊験の一端たる神風が吹かせ給い、救国を為して導いてくださると信ずる、その一心を支えとして。
しかしながら、他ならぬ神君の御言葉により、帝国の敗北は宣言された。神国滅亡の未来を嘆き、咽喉から絞り出すように、男は嗚咽の声を吐き出した。
「——陛下。なぜ我々を、信じてくださらなかったのですか」
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制作している創作物の一番最初の部分です。桐島の独白から始まります。
来年春にはもうちょっと長めのものを掲載予定です。
追記:かなり遅れております、申し訳ございません