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「すべては順調。なのに、満たされない」
──運命の出会いから3週間。充実と成功の光の裏側で、沙織(セリナ)の心に、微かな「影」が忍び寄る。
美穂(エレノア)との圧倒的な実力差。
SNSの反応の減少。そして、重く感じるセリナの衣装...
無自覚な心の疲弊は、彼女自身の存在、そして「セリナ」という仮面の運命を大きく揺さぶり始める。
沙織に今、何が起こっているのか...
※この章はPixivでも無料公開しています。
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【美穂との出会いから3週間後】
美穂との運命的な出会いから3週間。
沙織は軽やかな気持ちで目を覚ます。
目覚まし時計が鳴る前に、自然と目が開いた。
まだ薄暗い部屋の中、カーテンの隙間から朝の光が細く差し込んでいる。
「今日もいい天気」
カーテンを開けると、秋の清々しい朝日が部屋全体を優しく照らした。
窓の外には、まだ少し冷たさを残した空気が漂っている。
深呼吸すると、肺の奥まで澄んだ空気が染み渡るようだ。
洗面台で顔を洗いながら、鏡に映る自分の表情を見つめる。
笑顔が自然に浮かぶ。
頬に触れる水の冷たさが心地よく、目覚めを促してくれる。
(美穂さんと友達になって、もう3週間か。充実してる)
キッチンでトーストを焼き、コーヒーを淹れる。
部屋に広がる香ばしい匂いと、コーヒーの深い香り。
いつもの朝の儀式だが、今日は何故か特別に感じられる。
手早く準備しながらスマホでセリナのアカウントをチェックする。
画面に表示される前夜の投稿。
氷の騎士セリナが窓際に立ち、憂いを帯びた表情でこちらを見つめている。
前夜の投稿確認。
いいね数:112件、コメント:8件。
「まあまあかな」
特に気にせず、過去3週間の投稿履歴を遡ってみる。
3週間前:158件、2週間前:135件、1週間前:121件、昨夜:112件。
数字が少しずつ、でも確実に下降線を描いている。
(少しずつ減ってる...気のせいかな)
指が無意識に動き、美穂のアカウントを開いてしまう。
エレノアの最新投稿。
白い騎士衣装に身を包んだエレノアが、祈りのポーズで佇んでいる。
いいね数:842件、コメント:67件。
(美穂さん、相変わらずすごいな)
その数字を見て、胸の奥に小さな違和感が生まれる。
でも、それが何なのか、まだ言葉にはできない。
スマホを置き、トーストを頬張る。
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【市役所での充実と疲労の狭間】
駅までの道のりを軽やかに歩く。
街路樹の葉が少しずつ色づき始めている。
秋の清々しい空気が頬を撫でる。
通勤路はいつもと変わらないのに、今日は少し足取りが軽い気がする。
市役所の玄関をくぐる。
自動ドアが開き、冷房の効いた空気が迎えてくれる。
「おはようございます、沙織さん」
愛美の明るい声に振り返る。
「おはようございます」
自然な笑顔で返す。
「沙織先輩、なんだか最近表情豊かですよね」
さくらが嬉しそうに、少し不思議そうな顔で言う。
「そうかな?」
少し照れながら答える。
自分では気づかなかったが、確かに最近、表情が変わってきたのかもしれない。
セリナとして演じることで身につけた表現力が、日常にも滲み出ているのだろうか。
デスクに着き、パソコンを起動する。
いつもの朝が始まる。
午前の窓口対応が始まる。
市民課の窓口には、今日も朝から多くの市民が訪れていた。
「こちらにお名前をご記入ください」
高齢女性に丁寧に用紙を示す沙織。
その手の動きは、どこか優雅さを帯びている。
セリナとして身につけた、相手を気遣う所作が自然と現れていた。
「ありがとう。丁寧で分かりやすいわね」
高齢女性が満足そうに頷く。
(セリナの表現力、こういう時に役立ってる)
沙織は心の中で小さく微笑む。
着ぐるみ活動が、こうして日常の仕事にも良い影響を与えているのだと実感する。
午前10時過ぎ。
理不尽なクレームを言う高齢男性への対応。
30分以上かかった。
「なんでこんなに時間がかかるんだ!」
高齢男性が声を荒げる。
周囲の視線が集まるが、沙織は冷静に対応を続ける。
「申し訳ございません。確認が必要でして...」
丁寧に応対するが、内心は疲労でいっぱいだ。
セリナとしてマスクの中で耐え続けた経験が、こういう場面での我慢強さを与えてくれている。
(疲れる...でも、セリナで身につけた我慢強さがあるから大丈夫)
少し離れた席で、愛美がその様子を見守っていた。
(沙織さん、頑張ってるけど...少し無理してない?)
昼休憩。
食堂で愛美、さくらと3人で食事。
テーブルに並べられた昼食を前に、3人は自然と雑談を始める。
「そういえば、最近セリナさんの投稿見てるんですけど」
愛美が箸を持ちながら、さりげなく話題を振る。
「ああ、見てくれてるんですね」
沙織は少し照れながら答える。
「でも、なんだか最近似たような構図が多いような...」
さくらが素朴な疑問を口にする。
「似たような?」
沙織は少し戸惑った表情を浮かべる。
「いえいえ、悪い意味じゃないんです。でも、同じような場所で、同じようなポーズの写真が続いてる気がして」
愛美が慌てて補足する。
沙織は内心ドキッとする。
確かに最近は、自宅での撮影が中心で、新しい場所や新しいポーズに挑戦していない。
(確かに...最近はマンネリになってるかも)
「新しい挑戦とかしないんですか?他の着ぐるみさんたちって、動画を投稿したり、イベントに参加したり色々やってるみたいですけど」
さくらが何気なく言った言葉が、沙織の心に引っかかる。
「動画...」
沙織は考え込むような表情を浮かべる。
(マンネリ...してるのかな)
午後。
窓口が落ち着き、デスクワークへ。
単調な入力作業が続く。
モニターに映る無機質なエクセルの表。
数字と文字の羅列。
キーボードを叩く音だけが、静かなオフィスに響く。
気がつくと時計を見ている。
15:00、15:30、16:00...。
(まだ1時間半もある...)
窓の外を見ると、秋の日差しが穏やかに降り注いでいる。
こんな日は、セリナとして外で撮影したら気持ちいいだろうな、と沙織は思う。
17:00。
定時より30分早く業務終了。
周囲の同僚たちは、まだ仕事を続けている。
残業する人、早めに片付けて帰る人、それぞれだ。
沙織はデスクを整理し、静かに席を立つ。
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【帰宅後の空虚な時間】
18時30分。
沙織は自宅に帰り着いた。
鍵を開けてドアを開ける。
誰も待っていない部屋。
いつもの静けさが迎えてくれる。
「今日は何作ろうかな...でも今日は疲れたな」
独り言のように呟きながら、冷蔵庫を開ける。
中には野菜や食材がそこそこ入っている。
普段はちゃんと自炊しているのだが。
冷凍パスタを取り出す。
普段は手抜きしないのだが、最近は週に1〜2回こういう日がある。
電子レンジのボタンを押し、回転する皿を眺める。
テレビのバラエティを見ながら食べる。
芸人たちが騒がしく笑い合っている。
普段ならもっと楽しめるのに、今日は集中できない。
笑い声が、どこか遠くで響いているような気がする。
食事を終え、スマホでセリナのアカウントを開く。
通知数:87件。
「いいねも減ってる...でも」
コメントを読む。
数は少ないが、質の高いコメントが並ぶ。
『セリナ様の氷の表現、本当に唯一無二です』
『この世界観、他では見られない』
『憂いの表情に心を奪われます』
(みんな...すごく真剣に見てくれてる)
コメントを一つ一つ読んでいると、温かい気持ちになる。
ファンの人たちの言葉が、沙織の心を支えてくれている。
(でも、それが重荷になり始めている)
期待に応えなければ。
もっと良いものを作らなければ。
そんなプレッシャーが、じわじわと心を圧迫していく。
また、無意識にエレノアのアカウントを開く。
この3週間、何度この画面を開いただろう。
美穂の最新投稿。
いいね数:1,247件、コメント:89件。
内容:エレノアがマスクを被ったままピアノを弾いている動画。
「また...見ちゃった」
動画を再生する。
白い騎士衣装に身を包んだエレノアが、優雅にピアノを弾いている。
マスクを被ったまま、あれだけ流麗な演奏ができるなんて。
コメント欄には称賛の言葉が並ぶ。
『エレノア様の演奏、本当に素敵です!』
『マスクの中、どれだけ大変か...尊敬します』
『この技術、他では見られません!』
(美穂さん、マスク被ったままピアノ弾けるんだ...私には特技ないし)
(あれ...私、いつから美穂さんのこと、こんなに意識するようになったんだろう)
(最初は憧れだったのに...。今は比べちゃう。負けたくないって思っちゃう)
(ダメだ、こんなの。美穂さんは友達なのに)
スマホを置くが、心の中のモヤモヤは消えない。
部屋の静けさが、その感情をより鮮明にする。
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■美穂の充実した学校生活
木曜日、午前10時。
横浜市立中学校の音楽室。
「はい、もう一度。感情を込めて歌ってみましょう」
美穂がピアノを弾きながら、2年生の合唱指導をする。
ピアノの音色が教室中に響き渡る。
生徒たちの歌声が重なり、美しいハーモニーを作り出していく。
「先生のピアノ、本当に綺麗!」
女子生徒の一人が感嘆の声を上げる。
「ありがとう。みんなも練習すれば弾けるようになるわよ」
美穂は優しく微笑む。
(生徒たちの成長を見るのは嬉しい)
教室の後方で、クラリネットを膝に置いて座っている芽衣。
美穂の指導を真剣に見つめている。
(先生...すごい人なんだ)
「芽衣さん、次はクラリネットのソロね」
美穂が芽衣に視線を向ける。
「はい!」
芽衣が立ち上がり、丁寧にクラリネットを吹く。
以前より表現力が増している。
「素晴らしいわ、芽衣さん」
「ありがとうございます、先生」
芽衣は深々とお辞儀する。
午後3時30分。
吹奏楽部の部活動。
音楽室に50名近い部員が集まる。
「文化祭まであと2週間。みんなで最高の演奏を作り上げましょう!」
「はい!」
部員たちが元気よく返事する。
その声が音楽室に響き渡る。
トランペット、クラリネット、フルート...各楽器が調和していく。
美穂は指揮棒を振りながら、一人一人の音を聞き分けている。
「トランペット、音程が少し高いわよ。もう一度」
「はい、すみません!」
休憩時間。
「先生、お茶、お持ちしました」
芽衣がペットボトルを差し出す。
「ありがとう、芽衣さん」
美穂は優しく受け取る。
「先生、無理しないでくださいね」
芽衣の言葉は短いが、心からのものだ。
「大丈夫よ。ありがとう」
午後5時。
職員室で由香と会話。
「美穂は週末、エレノアの撮影あるの?」
「うん。新しいポーズ試してみたくて」
「相変わらず忙しそうね」
「大丈夫。忙しいけど、充実してる」
美穂は満足そうに微笑む。
疲れはあるが、それ以上に充実感がある。
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【偶然の遭遇と言えなかった本音】
金曜日、午後5時30分。
横浜駅西口の駅ビル内。
仕事帰りの沙織は雑貨店でセリナ用の小物を探している。
店内には様々なアクセサリーが並んでいる。
(新しいアクセサリー、欲しいけど...予算が)
手に取っては戻す、を繰り返す。
どれも魅力的だが、値段を見ると躊躇してしまう。
同じ頃、美穂も仕事帰りに文房具店で音楽の授業用の教材を購入していた。
(来週の授業、この教材使おう)
下りエスカレーターで2人が遭遇する。
「あ、美穂さん!」
沙織が驚いた表情で声をかける。
「沙織さん!こんなところで偶然ですね」
美穂は嬉しそうに答える。
エスカレーターを降りて、少し立ち話。
金曜日の夕方、駅ビルは多くの人で賑わっている。
「最近、お仕事忙しいですか?」
美穂が優しく尋ねる。
「ぼちぼちです。美穂さんは?」
「文化祭の準備で...週末もリハーサルがあって」
「大変そうですね」
「でも充実してます。沙織さん、セリナさんは順調ですか?」
「はい、順調です」
沙織は笑顔で答えるが、内心は微妙な気持ちだ。
本当は色々と悩んでいるのだが、それを美穂に言うことはできない。
笑顔で話しているが、2人とも少し疲労が顔に出ている。
金曜日の夕方、一週間の疲れが溜まっている。
(沙織さん、少し疲れてる?でも、順調って言ってたし大丈夫かな)
美穂は少し気になっていた。
(美穂さんも大変そう...。でも充実してるって言ってた。私も頑張らないと)
沙織はそう思う。
「また今度、ゆっくりお茶しましょう」
「はい、ぜひ!」
「それじゃあ、お疲れ様です」
「お疲れ様でした」
2人は別れる。
どちらも「実は相談したいこと」を言い出せずにいた。
駅ビルの雑踏の中、それぞれが反対方向へ歩いていく。
(動画のこと、聞きたかったな...。でも忙しそうだし)
沙織は心の中で呟く。
(沙織さん、何か悩んでる?気のせいかな)
美穂も少し気になっていた。
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【沙織の土曜午後撮影】
土曜日、午後2時。
沙織のマンション。
12時過ぎに帰宅し、急いで昼食を取る。
コンビニで買ってきたおにぎりを頬張りながら、時計を気にする。
「時間ない...急いで準備しないと」
(何か撮らなきゃ...今週も投稿しなきゃ)
(美穂さんは定期的に投稿してる...。私も負けられない)
全身タイツ、エナメルドレス、グローブ、ブーツ...。
いつもより少し雑な装着。
焦りが手の動きを急かす。
(とにかくセリナになって、何か撮影しないと)
マスクを装着。
金具を固定する。
いつもの手順だが、今日はどこか機械的だ。
「よし、セリナになった」
でも、いつもとは違う焦燥感が胸にある。
何か大切なものを忘れているような、そんな感覚。
スマートフォンをセルフタイマーにセットしようとするが...。
手が止まる。
(あれ...なんか、撮影する気が起きない)
マスクの中で深呼吸する。
自分の吐息がマスクの内側に当たり、顔に熱い空気が返ってくる。
(気のせい。いつも通り撮ればいいだけ)
でも動けない。
スマホを持ったまま、その場に立ち尽くす。
姿見に映る自分の姿が、どこかよそよそしく見える。
(なんで?いつもなら迷わず撮影できるのに)
(セリナになるの...嫌?そんなはずないのに)
「とにかく撮ろう!」
無理やり自分を奮い立たせ、いつものポーズで撮影開始。
窓際で剣を構えるポーズ。
シャッター音。
でも表現が硬い。
(なんか...いつもと違う)
椅子に座って憂いのある表情。
何度撮っても、しっくりこない。
モニターに映る自分の姿が、どこか作り物めいて見える。
(何が違うんだろう...)
立ち姿のバストアップ。
これもピンとこない。
(全然...ダメだ)
(写真がダメなら...動画にしてみよう)
スマートフォンを動画モードに切り替える。
剣を抜く動作の撮影。
1回目:ぎこちない。
2回目:つまづきそうになる。
3回目:動きが硬い。
(やっぱり...私には動画は無理)
再生して確認する。
どれも投稿できるレベルではない。
画面に映る自分の動きが、ロボットのようにぎこちない。
「これじゃあ...」
削除ボタンを押す。
(写真もダメ、動画もダメ...。じゃあ、何を撮ればいいの?)
マスクを被ったまま、セリナの姿でソファに座り込んでしまう。
「疲れた...」
リビングの姿見に、ソファに座るセリナの姿が映っている。
(これが...私?)
(私、何やってるんだろう...)
(何のためにセリナを着てるんだっけ?)
(最初は...楽しかったはずなのに)
(ファンを喜ばせたい...。でも、それがプレッシャーになってる)
(美穂さんに負けたくない...。でも、そんなつもりじゃなかったのに)
(この半年で色々変わりすぎて...。私の気持ちが追いつかない)
(私、何がしたいの?)
(セリナが好き...。でも、今はセリナでいるのが苦しい)
(おかしい...こんなの、おかしいよ)
時計を見ると30分経過している。
ソファに座ったまま、30分も自問自答を続けていた。
(答えが...出ない)
「今日は...無理だ」
マスクの金具に手をかける。
(納得いく撮影ができないなら、投稿しない方がいい)
金具を外し、丁寧にマスクを脱ぐ。
「はぁ...」
深い安堵のため息。
(いつもより...外した時の解放感が大きい)
顔は汗でびっしょり。
でも表情は疲れ切っている。
エナメルドレス、グローブ、ブーツ、全身タイツ。
普段は丁寧にハンガーにかけるが、今日は力なくソファに置いてしまう。
(今日は...片付ける気力もない)
「ダメだ、ちゃんと片付けないと」
少し休んでから、衣装を丁寧にハンガーにかけ、マスクも専用ケースに仕舞う。
(せめて、セリナには丁寧に接しないと...)
スマホで撮影した写真を全て見返すが、どれも納得いかない。
「今日は投稿やめよう...」
全ての写真を削除する。
(ファンが待ってるかもしれないのに...)
(でも、こんな中途半端な写真、投稿できない)
(私...どうしちゃったんだろう)
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【深夜の衝動と葛藤】
午後11時。
パジャマを手に取り、脱衣所に向かおうとした瞬間。
「あれ...」
ふと、クローゼットの方を見てしまう。
(今日、結局何も撮れなかった...)
(新しいポーズ、研究だけでもしておこうかな)
「少しだけ...ポーズの確認だけ」
パジャマを置き、クローゼットに向かう。
全身タイツを手に取る。
(ポーズの確認だけだし...)
普段は専用のスポーツインナーに着替えるが、時計を見ると深夜23時過ぎ。
(もう遅いし...インナー替えるの面倒だな)
(どうせ撮影するわけじゃないし、いいよね)
普通の下着のまま全身タイツを着用する。
エナメルドレスを手に取るが、急に重く感じる。
(衣装も...着るの面倒)
(確認だけだから、衣装まで着なくてもいっか)
(ポーズの研究だもん。形だけ確認できればいい)
クローゼットから、いつもよく着ているベージュのニットに膝丈の黒いフレアスカートを取り出す。
全身タイツの上から私服を着始める。
鏡に映る自分を見て、タイツ越しに、下着のラインがうっすらと透けている。
特にベージュのニットに生地越しに、胸回りのラインが目立つ。
「あ...」
記憶が蘇る。
薄いピンクのワンピースを着たセリナの写真。
投稿後、沙耶香からの指摘。
「下着のラインが透けてる」。
恥ずかしさと後悔。
「もう手を抜かない」と沙耶香に約束したはずなのに...。
(あの時と...同じだ)
(でも、今日は撮影するわけじゃないし)
(ポーズの確認だけだから、大丈夫)
ニットとスカートを着終える。
髪の毛をゴムで束ね、全身タイツのフードを被る。
沙織は沙耶香に対する罪悪感を感じながらも、マスクを手に取る。
金具を固定し、セリナのマスクを被る。
全身タイツとマスクだけのセリナ。
私服姿のセリナ。
姿見の前に立つ。
鏡に映る自分の姿。
いつもと全く違う。
(私服のセリナ...変だけど)
剣を構える、立ち姿、座った姿勢。
新しいポーズを試してみる。
でも、どれもしっくりこない。
(何やってるんだろう、私...)
(私服でポーズ研究って...意味ないじゃん)
(そうだ...この姿で撮影してみたら?)
(私服姿のセリナ...日常のセリナ)
(新しい試みとして...ありかも)
スマホを手に取り、セルフタイマーをセット。
私服姿のセリナ。
マスクだけは完璧なセリナ。
リビングのソファに座るセリナ。
窓際に立つセリナ。
本を持つセリナ。
何枚か撮影する。
(意外と...いいかも)
撮影を終え、マスクを外す。
フードも脱ぐ。
全身タイツ姿のまま、ソファに座ってスマホで写真を確認。
明るさ、コントラスト、彩度を調整。
「あれ...意外と良い感じ」
フィルターをかけて、雰囲気を出す。
「これなら...」
投稿画面を開く。
キャプションを書きながら。
「日常のセリナ。騎士も休日は...」。
指が止まる。
もう一度写真を見直す。
拡大して、細部を確認。
「...あ」
胸の周り、うっすらと下着のラインが浮いている。
記憶が鮮明に蘇る。
「もう手を抜かない」。
沙耶香への約束。
あの時の恥ずかしさ。
「ダメだ...また同じことしてる」
(今、私...あの時と全く同じ状態じゃん)
(普通の下着のまま、タイツ着て、私服着て...)
(もし投稿したら、また同じ失敗をする)
「やめよう...」
投稿画面を閉じる。
写真を削除する。
(沙耶香ちゃんに約束したのに...)
(手を抜こうとした...また)
全身タイツ姿のまま、ソファに深く座り込む。
外したセリナのマスクを両手で持ちながら、見つめる。
(セリナ、好きなはずなのに...)
(ファンも喜んでくれてる。注目もされてる)
(でも...何か撮らなきゃって焦ってる)
(投稿しなきゃって、追い詰められてる)
(美穂さん...エレノアさん)
(最初は憧れだったのに、いつの間にかライバルだと思ってる)
(負けたくないって...そんなつもりじゃなかったのに)
(今日も...手抜きしようとした)
(沙耶香ちゃんとの約束、破りそうになった)
(セリナが好き。でも、なんかセリナになるのが苦しい)
(ファンを喜ばせたい。でも、それがプレッシャー)
(美穂さんと仲良くしたい。でも、比べちゃう)
セリナのマスク。
いつも大切に扱っているマスク。
(私...どうしたいんだろう)
(何のためにセリナをやってるんだっけ)
時計を見ると、深夜0時を過ぎている。
「もう...寝よう」
力なく立ち上がり、全身タイツを脱ぐ。
マスクを専用ケースに仕舞う。
その手つきだけは、いつも通り丁寧に。
(明日になれば...何か答えが見つかるかな)
期待はしていないが、そう自分に言い聞かせる。
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【美穂の帰宅後と週末撮影】
午後7時。
美穂の1LDKマンション。
冷蔵庫から作り置きしておいた煮物を取り出す。
「作り置きしておいて良かった」
温めながら、今日の授業を思い返す。
生徒たちの成長を感じられた、良い一日だった。
食事しながら、テストの採点を進める。
赤ペンで丸をつけ、コメントを書き込んでいく。
午後8時。
エレノアの白い騎士衣装を丁寧にチェック。
専用クリーナーで、一つ一つ丁寧に拭いていく。
「次の撮影は...この新しいポーズを試してみよう」
ノートに撮影プランを書き込む。
構図、ポーズ、表情の案がどんどん浮かんでくる。
ペンを走らせる手が止まらない。
次回投稿の文章を考える。
スムーズに言葉が出てくる。
(沙織さん、どうしてるかな)
午後9時30分。
温かいお湯に浸かりながら、一日を振り返る。
「はぁ〜、気持ちいい」
湯船に浸かり、目を閉じる。
一日の疲れが、お湯に溶けていくようだ。
ベッドで10分ほど本を読んでから、自然と眠りにつく。
明日も充実した一日になりますように。
土曜日、午後2時。
横浜海浜公園。
「美穂、お疲れ様!」
由香が待ち合わせ場所で手を振る。
「由香さん、今日もよろしくお願いします」
更衣室でエレノアの衣装を装着。
慣れた手順でマスクを被る。
海を背景に、祈りのポーズ、剣を掲げるポーズ、優雅な立ち姿。
「美穂、今日も素晴らしいわ!」
由香のシャッター音が心地よく響く。
90分の撮影を終え、更衣室へ。
「はぁ...疲れたけど、楽しかった」
午後7時。
帰宅後、由香から送られてきた写真の中から、ベストショットを選ぶ。
「この写真、すごく良い」
投稿文作成。
『本日も海辺での撮影、ありがとうございました。生命と光の祈りを込めて。皆様の日々に、小さな光を届けられますように。#エレノア・サンクティス #聖騎士 #海辺の祈り』
投稿直後の反応。
10分後、いいね数:287件、コメント:31件。
「みんな、ありがとう」
美穂は満足そうに微笑む。
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【見えない影の深化】
日曜夜、午後10時。
ベッドの中で、土曜の投稿を再度確認する沙織。
最終的ないいね数:143件、コメント:11件。
(やっぱり、前より少ないかも...)
美穂の土曜投稿も確認する。
いいね数:1,532件、コメント:124件。
(差が...あるなぁ)
(まあ、美穂さんは先輩だし、フォロワーも多いから。)
(私は私のペースで頑張ろう)
(でも...このままでいいのかな)
(まあ、そのうち何とかなるよね)
特に結論を出さず、眠りにつく。
同じ頃、美穂の部屋。
明日の授業準備を終えた美穂。
「明日も頑張ろう」
土曜の投稿反応を確認。
いいね数:1,532件、コメント:124件。
「みんな、いつもありがとう」
(沙織さん、金曜日に会った時、少し元気なかったかな...。今度ゆっくり話してみよう)
(仕事もエレノアも、両方大切。大変だけど、充実してる)
美穂は満足そうな表情で眠りにつく。
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【不眠の夜】
翌週月曜朝。
目覚まし時計が鳴る。
「んー...あと5分」
沙織は二度寝してしまう。
結局、いつもより10分遅く起床。
洗面台の鏡を見る。
(なんか...顔色悪い?)
よく見ると、目の下に薄いクマができている。
(最近、寝つきが悪いな...)
でも特に気にせず、洗顔。
朝食は軽め。
いつもより食欲がないので、トーストとコーヒーだけ。
(なんか食欲ないな...疲れてるのかも)
通勤電車の中、なんとなく気分が重い。
(最近、なんか疲れる...)
(でも、仕事頑張れば気分も変わるよね)
特に深刻には捉えず、市役所に向かう。
(なんだろう...この感じ)
窓の外を眺めながら、沙織は小さくため息をついた。
金曜日の夜、午後10時。
一週間の疲れが溜まった体で帰宅する沙織。
「はぁ...疲れた」
いつもなら週末の撮影に向けて準備をする時間だが、今日は特に疲れている。
冷蔵庫から昨日の残り物を温めて食べる。
(週末、また撮影か...)
以前なら楽しみだったはずの週末撮影が、今は少し重く感じる。
週末に向けて、セリナの衣装を手入れしようとクローゼットを開く。
深みのあるブルーのエナメル生地。
室内の照明を反射し、いつもなら心を高揚させるはずの輝きを放っている。
「...」
しかし、沙織は動けなかった。
その衣装が、いつの間にか、巨大な鉄の鎧のように見えたのだ。
(これさえ着れば、セリナになれる。特別な自分になれる。でも...)
衣装を手に取る。
いつもより重く感じる。
(気のせい...だよね)
衣装をハンガーに戻し、クローゼットを閉じる。
(明日、手入れしよう...今日は疲れてるし)
ソファに座った瞬間、スマホが光る。
そこに美穂からのLINEメッセージが入る。
『沙織さん、今度の動画撮影、新しく覚えたあの表現! 一緒にやってみませんか?沙織さんならきっとエレガントに決まりますよ!✨』
文字はいつも通り明るく、前向きで、一切の悪意がない。
しかし、沙織の胸に突き刺さったのは、「完璧な美穂には、この停滞が理解できないだろう」という黒い感情だった。
何度も文字を打っては消す。
「はい、ぜひ!」と返信したいのに、指が動かない。
(動画...私、できるのかな)
(美穂さんみたいに、完璧にできるのかな...)
「まぁ後で返信しよう...」
スマホをそっと伏せる。
(なんで...こんな風に思っちゃうんだろう)
(美穂さんは悪くないのに...)
(私、最低だ...)
温かいお湯に浸かるが、気持ちは晴れない。
(明日は、新しいポーズの練習と、美穂さんとの予定を考えなければ...)
そう思うと、瞼の裏がじくじくと熱い。
パジャマに着替えてベッドへ。
いつもならすぐに眠れるのに、今日は違う。
目を閉じても、なぜか頭は冴えわたっていた。
(ファンのみんな、待ってるよね...)
(新しい投稿、期待してるよね...)
(美穂さんは、どんどん新しいことに挑戦してる)
(私は...何もできてない。 っていうか、私にファン?? そんなもの本当にいるのかな...)
(衣装も劣化してきてる...新しいの、作らないと)
(でも、お金が...)
(あぁ週末、撮影...めんどくさいな...)
( ........ )
(え...私、今、何て思った?)
(撮影が好きなはずなのに...)
(撮影したくないって...そんな)
深夜0時30分。
(眠らないと...明日、撮影なのに)
焦れば焦るほど、眠気は遠ざかる。
また時計を見る。
深夜1時。
(眠れない...)
暗闇の中、天井を見つめる。
(最近、こんな日が増えてる気がする)
(でも...気のせいだよね)
無理やり目を閉じて、眠ろうとする。
時計の針が、深夜1時30分を打つ頃、ようやく浅い眠りについた。
「......眠れない」
その小さな呟きは、誰にも届かず、静かに闇夜に溶けていった。
この夜を境に、沙織の心に見えない亀裂が入り始めた。
本人は気づいていない。
でも、確実に何かが変わり始めている。
―続く―
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第6章:氷の騎士の憂鬱~セリナ引退!?
※10/24(金)公開予定