================================= 27歳の平凡なOL・田中由美は、ある日、完璧な美しさを持つドール着ぐるみ「セレナ」と出会う。 それは、退屈な日常から逃れ、理想の自分になるための唯一の手段だった。 しかし、もう一人の自分を手に入れた由美の心は、次第に「セレナ」に侵食されていく。 これは、自己を模索する現代女性の、依存と堕落の物語。 ================================= 【始まりの誘惑】 --- 平凡な日常 金曜日の夕方、満員電車の中で田中由美は小さくなって立っていた。 27歳、一般事務職。身長160センチ、標準的な体型で特に目立つ特徴はない。 茶色い髪はいつものように一つに束ね、ベージュのカーディガンに膝丈のスカート。 どこにでもいる、ごく普通のOLだった。 「今日は彼女と出掛けるんだ」 「今度の連休、軽井沢に行くの」 周りの同僚たちの華やかな会話が耳に入る。 由美は目を伏せ、小さなため息をついた。 彼氏もいない、特別な趣味もない、週末の予定すらない。 「私の人生って...このままなのかな」 帰宅した1DKの部屋。 狭いキッチンで冷凍食品を温め、一人で夕食を摂る。 テレビからは芸能人の恋愛話が流れているが、どこか遠い世界の出来事のように感じられた。 日曜日の午後、由美は漠然とした焦燥感を抱えながら、スマホをスクロールしていた。 誰もが楽しそうに過ごすSNSのタイムラインは、由美の平凡な日常を嘲笑っているように見えた。 何気なく、いつものようにスマートフォンでSNSを眺めていた由美の指が、ある写真で止まった。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ --- 運命的な出会い 画面に映っていたのは、人間離れした完璧な美しさを持つドール着ぐるみだった。 漆黒のロングヘアが腰まで届き、白磁のような肌、大きな瞳。 エレガントな黒いドレスを纏ったその姿は、まるで生命を宿した本物の人形のようだった。 「こんなに美しい...まるで本物の人形みたい」 コメント欄の「変身願望が叶う」「別の自分になれる」という言葉が、心の奥底で眠っていた「特別な存在になりたい」という願望を、激しく揺さぶり起こした。 その時、由美の心臓が、トクン、と不規則に跳ねる。 それはこれまで感じたことのない、禁断の扉が開く音のようだった。 「別の自分...私も、こんな美しい存在になれたら...」 由美の心が大きく動いた。 その夜、由美は眠れなかった。 頭の中には先ほど見た美しいドールの姿がずっと浮かんでいる。 平凡で退屈な自分から抜け出したい。そんな願望が心の奥底から湧き上がってきた。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ --- 購入への決断 一週間後の仕事帰り、由美は都内の専門店を訪れていた。 緊張で手のひらに汗をかきながら、店内の美しいドール着ぐるみの数々を見て回る。 「初めてでいらっしゃいますか?」 店員の女性が声をかけてきた。 30代半ばと思われる上品な女性で、どこか神秘的な雰囲気を纏っている。 「は、はい...あの、ドール着ぐるみというものに興味があって...」 「素晴らしいご趣味です」店員は微笑んだ。 「変身願望をお持ちの方には、人生を変える体験になりますよ」 店員の丁寧な説明を受けながら、由美は「セレナ」と名付けられたドールのマスクと衣装一式を見詰めていた。 セレナは腰まで届く漆黒のストレートヘア、陶器のように美しい白い肌、そして神秘的な微笑みを浮かべている。 「この子はいかがでしょうか?お客様の体型にぴったりだと思います」 「素敵ですね...」 「マスク、ウィッグ、肌タイツ、ドレス一式のでのセットでご購入いただけます。」 由美は一瞬躊躇した。決して安い買い物ではない。 しかし、心の奥底で何かが強く彼女を引っ張っている。 「...お願いします」 「ありがとうございます。初回は必ず短時間でお試しください。 慣れるまで時間がかかりますし、長時間の装着は危険ですから」 店員の言葉に、由美は緊張と期待で胸が高鳴るのを感じていた。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 【変身の喜び】 その夜、深夜1時。由美は購入したセレナの衣装を前に立っていた。 まず肌タイツから始める。足先から慎重に通していく。 冷たく人工的な質感が素肌を包んでいく。膝、太もも、腰...徐々に自分の肌が人工的な肌色に変化していく。 「ひんやりして...でも、なんだか別の生き物になっていくみたい」 背中のファスナーを上げる瞬間、全身がきゅっと締め付けられる。 もはや生身の肌は一切見えない。鏡に映るのは、人工的な美しさを持つ人形の身体だった。 次に黒いドレス。高級な素材で作られたそれは、由美の体型に完璧にフィットした。 そして、いよいよセレナのマスクだ。 由美は震える手でマスクを持ち上げる。 前面と後面に分かれた構造で、内側には柔らかなスポンジが張り付けられている。 「本当に被って大丈夫かな...」 意を決して、前面パーツを顔に当てがう。 冷たく硬い内壁が頬に触れた瞬間、由美は小さく息を呑んだ。 スポンジが顔の輪郭に沿って密着していく。 額、こめかみ、頬、顎...顔全体が柔らかく、しかし確実に圧迫される。 「うっ...きつい...」 後頭部のパーツを装着し、両耳の上の小さな金具を留める。 「カチリ」という小さな音とともに、由美は人間としての最後の証拠を失った。 視界が一気に狭まる。普段の30%程度しか見えない。 呼吸は鼻の小さな穴と口元のわずかな隙間からしかできず、明らかに酸素が不足している。 「はぁ...はぁ...息苦しい...でも...」 最後に漆黒のロングウィッグを装着。 境界線が完全に隠され、セレナの美しい髪型が完成した。 鏡を見た瞬間、由美は息を呑んだ。 そこには完璧なセレナが立っていた。 もはや田中由美の面影は一切ない。 「これが...私?信じられない...」 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ --- 解放される新しい自分 セレナとなった由美は、不思議な感覚に包まれていた。 まるで別の人格が宿ったかのように、自然と背筋が伸び、優雅なポーズを取っている。 普段の由美では絶対にしない大胆な動き。鏡の前での完璧なポージング。 自信に満ちた立ち姿。 「これが私の本当の姿...こんな美しい自分がいたなんて...」 マスクを装着した瞬間、呼吸は制限され、頭全体が締め付けられるような圧迫感が襲った。 「はぁ…はぁ…息苦しい…でも…」 しかし、その不快感の中で、由美は不思議な興奮を感じていた。 まるで、現実の自分を覆い隠すベールが、その苦しさとともに完成していくような感覚。 息をするたびに、鼻の小さな穴から入ってくるわずかな空気が、生身の自分を窒息させ、セレナという新しい存在を誕生させている。 この苦しみが大きければ大きいほど、セレナとしての自分が完璧になっていく。 そう思うと、不快感はいつの間にか、特別な儀式に立ち会うかのような、抗いがたい快感へと変わっていた。 これまで感じたことのない高揚感が全身を駆け巡っていた。 30分後、限界を感じた由美はマスクを外した。 金具を外し、前面パーツが外れた瞬間、冷たい空気が火照った顔に触れる。 「はぁ...はぁ...」 大きく深呼吸する由美。 額から頬まで汗でびっしょりで、髪の毛も汗で湿っている。それでも表情は満足感に満ちていた。 「すごい体験だった...また明日もやってみよう」 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ --- 日常への影響 翌日の会社。 由美は普段通りの地味な服装で出社したが、心の中には昨夜の体験が色濃く残っている。 「おはよう、田中さん」 同僚の挨拶に、由美はいつもより明るく答えた。 「おはようございます!」 普段の由美なら小さな声で返すところだが、今日は違った。 セレナとしての体験が、確実に由美の中に変化をもたらしている。 「あれ?田中さん、なんだか今日は雰囲気が違うね」 「そ、そうですか?」 由美は慌てたが、内心では嬉しかった。 変化を気づいてもらえるなんて、これまでなかったことだ。 「私にもあんな美しい一面があるんだ...」 その夜、由美は再びセレナに変身した。 今度は少し時間を延ばし、1時間装着してみる。 マスクの中での息苦しさにも慣れ、セレナとしての動きもより自然になっている。 鏡の前でポーズを取りながら、由美は幸福感に包まれていた。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 【深まる依存】 --- 変身の常習化 2ヶ月後。由美の変身は週2〜3回のペースに増えていた。 給料のほとんどを衣装代に費やし、セレナとして過ごす時間も徐々に延びている。 最初の30分から始まって、今では2時間の装着も可能になった。 より複雑なポーズや動作を練習し、部屋中でセレナとしての生活を楽しんでいる。 「今日はどのドレスにしようかな」 クローゼットには美しいセレナの衣装が並んでいる。 黒いエレガントなドレス風ワンピース、赤いバラのモチーフが美しいドレス、純白のウェディングドレス風の衣装、紺色の上品なワンピース...どれもセレナの美しさを引き立てる逸品ばかりだ。 この日は新しく購入した深紅のドレスを選んだ。 肌タイツを着用し、ドレスを身に纏い、そしてセレナのマスクを被る。 一連の動作はもはや儀式のようだった。 マスクを被った瞬間、由美の人格が奥に引っ込み、セレナの人格が前面に出てくる。 「今夜の私は、特別に美しい...」 鏡の前で様々なポーズを取りながら、セレナ(由美)は自分の美しさに酔いしれている。 この時間だけは、平凡な田中由美のことなど完全に忘れられる。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 金曜日の夜、変身3ヶ月目のことだった。 いつものようにセレナに変身し、鏡の前に立つ由美。 しかし今夜は何かが違った。 「あれ?今の私は由美? それともセレナ?」 マスクの中で混乱する意識。 自分が今どちらの人格として存在しているのか、わからなくなってしまった。 鏡に映るのは完璧なセレナの姿。 しかし中にいるのは由美のはず。 でも、思考回路はセレナのもののように感じられる。 「おかしい...私、ちょっと変になってる?」 この疑問を抱いた瞬間、またスイッチが切り替わったように由美の人格が戻ってきた。 セレナの美しい外見と由美の内面...その不協和音に、由美は不安を感じ始めていた。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ --- 日常での変化 変身翌日の土曜日。 由美は普段着で外出したが、歩き方がわずかにセレナのような優雅さを帯びている。 無意識の変化だった。 道行く人が振り返る。 普段の由美なら気づかないような視線を、今日は敏感に感じ取っている。 「あれ?私、いつもこんな歩き方だったっけ?」 コンビニで買い物をする時も、店員への対応が以前より堂々としている。 レジでお金を払う手つきまで、どこか優雅さが漂っている。 帰宅後、由美は鏡で自分の顔を見詰めた。 普段の田中由美の顔。 でも、どこか違って見える。 「私...変わってきてる」 それは嬉しい変化でもあったが、同時に不安でもあった。 自分はどこまで変わっていくのだろう。 そして、今の自分は本当の自分なのだろうか。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 【侵食される自己】 --- 制御できない衝動 平日の深夜。 残業で疲れて帰宅した由美は、シャワーを浴びて早く寝るつもりだった。 「今日セリナになるのはやめておこう。疲れてるし...」 しかし、シャワーから上がって部屋に戻ると、気がつくと肌タイツを手に取っていた。 「あれ、なんで...? 今日はやめるつもりだったのに...」 意識では止めたいのに、手が勝手に動いている。 まるで別の意志に操られているような感覚だった。 「だめ、だめよ...明日も仕事なのに...」 でも足は既に肌タイツに通され、身体は自動的に変身の準備を進めている。 理性と身体の乖離に、由美は恐怖を感じた。 「私の身体が...言うことを聞かない...」 マスクを被る瞬間、以前よりも息苦しさが増していた。 スポンジの圧迫感が強く、明らかに不快感が襲う。 「苦しい...前よりもきつい...なのに...」 しかし同時に、その苦痛に興奮している自分がいる。 矛盾した感情に困惑する由美。 マスクの中では、酸素不足による軽い眩暈が始まっている。 額に汗が浮かび、呼吸が荒くなる。 それでも外そうとしない自分への恐怖。 「なんで...なんで外せないの?苦しいのに...」 汗がマスクの内側を伝って流れ、塩辛い味が口の中に広がる。 視界もぼやけ始めているのに、身体は完璧なセレナのポーズを取り続けている。 「私...おかしくなってきてる...」 変身中、由美の意識が薄れ、セレナの人格が前面に出る瞬間が増えていた。 まるで自分の身体を他人に乗っ取られているような感覚。 セレナとしての行動を傍観者として見ている由美。 「あれ? 今、私は何をしようとしてたっけ? なんで身体が勝手に動いてるの?」 セレナの人格が主導権を握っている間、由美は自分の身体の中で小さくなっている。 まるで客席から舞台を見ているような、不思議な感覚だった。 「私はここにいる...でも、動いているのは私じゃない...」 この現象が起こるたびに、由美は自分が何者なのかわからなくなっていく。 田中由美なのか、セレナなのか、それとも全く別の何かなのか。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 【恐怖の深淵】 「もう、セレナになるのはこれで最後にしよう...」 由美は毎回そう決意するが、その決意は必ず破られる。 夕方、仕事を終えて帰宅する。 「今日はセレナにならない」と心に誓う。 夕食を摂り、テレビを見て、早めに就寝の準備をする。 しかし深夜になると、身体が勝手に動き出す。 肌タイツを取り出し、ドレスを選び、そしてセレナのマスクを手に取る。 「だめ...やめなけいと...」 頭では分かっているのに、手は止まらない。 これがもう3週間ほど続いていた。 「なんで...なんでやめられないの? 私、完全におかしくなってる...」 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ある夜、由美は意識を失うまでマスクを被り続けた。 4時間の連続装着。マスクの中は酸素不足による意識の混濁状態が続いている。 大量の汗でマスク内が蒸れ、呼吸困難感による軽いパニック状態。 「苦しい...もう限界...でも外せない...私の手が言うことを聞かない...」 視界がぼやけ、音が遠くなる。身体の感覚が麻痺していく。 それでもセレナとしての完璧なポーズを崩さない身体。 そして、暗闇へ... マスクの中で大粒の涙を流しながら、由美は自分の状況を客観視していた。 温かい涙がマスクの内側を伝って流れ、塩辛い味が口の中に広がる。 涙でさらに息苦しくなるマスク内。 「私は一体誰なの? 由美? それともセレナ?? もう分からない...」 鏡に映るのは、涙を流すことのできない完璧で美しいセレナの顔。 その美しい微笑みと、マスクの中で泣き続ける由美の絶望的なギャップ。 「私、もう壊れてる... このままじゃダメになっちゃう... でも、止められない...」 恐怖が心を支配していく。 しかし同時に、その恐怖すらも快感に変わっていく自分がいる。 「助けて... お願い、誰か...助けて...」 でも誰にも相談できない。 この秘密は、由美一人だけのものだった。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 【朝が来るまで】 深夜3時頃。 極度の酸素不足で由美の意識が朦朧としていた。 視界が完全にぼやけ、音が遠い世界から聞こえてくる。 身体の感覚が徐々に麻痺していく。 でも不思議なことに、セレナとしての姿勢は完璧に保たれている。 最後に脳裏に浮かんだのは、母親の顔だった。 「お母さん...私...壊れちゃった...」 由美はセレナのマスクの中で涙を流した。 そして意識は暗闇に消えていく。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 午前7時。 カーテンの隙間から差し込む朝日で、由美は目を覚ました。 身体はソファに倒れ込んでいた。 節々が痛く、頭痛がする。 マスク内は汗と湿気で不快感が極限に達している。 「あれ...朝...? 私、いつから...」 昨夜の記憶が曖昧だった。 どの時点で意識を失ったのかも分からない。 ただ、セレナの完璧な衣装を身に纏ったまま、一夜を過ごしていたことだけは確かだった。 息苦しさに耐えかねて、由美は慌ててマスクの金具に手をかける。 震える手でなんとかマスクを外す。 マスクが外れた瞬間、解放感が全身を駆け抜けた。 冷たい空気が火照った顔に触れる快感と大きく深呼吸する由美。 洗面台で自分の顔を見た由美は、愕然とした。 額から頬まで汗でびっしょり。 髪の毛は汗で湿ってぺったりと頭に張り付いている。 顔全体が赤く火照り、マスクの跡がうっすらと残っている。 唇は乾燥でカサカサになっていた。 「ひどい顔...でも...やっと息ができる...」 鏡の中の自分は、まさに疲れ切った田中由美だった。 セレナの美しさは、どこにも残っていない。 テーブルの上には、さっき外したセレナのマスクが置かれている。 変わらぬ美しい微笑みで、由美を見詰めていた。 朝日を受けて輝く白磁のような肌。 まるで生きているような瞳の輝き。 セレナの何も知らぬような無邪気な微笑み。 「あなたは...私なの? それとも...」 由美はマスクを見詰めたまま、答えの出ない問いを心の中で繰り返した。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 【智子という救い】 木村智子は由美の大学時代からの親友だった。 同じ年の27歳で、アパレル会社でバイヤーとして働いている。 身長165センチ、ショートボブの髪型が良く似合う、明るく社交的な女性だ。 智子は由美とは正反対の性格で、積極的で自分の意見をはっきり言う。 それでいて人の心を察するのが得意で、由美の数少ない理解者だった。 「由美は優しすぎるのよ。もっと自分を大切にしなさい」 いつも由美を気にかけてくれる智子。 月に2〜3回は連絡を取り合い、時々一緒に食事をする仲だった。 しかし最近、由美の様子がおかしいことに智子は気づいていた。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ --- 異変への気づき ある金曜日の夜、智子は由美に電話をかけた。 「もしもし、由美? お疲れ様」 「あ...えーっと、すみません。どなたでしょうか?」 智子は一瞬、耳を疑った。 「何言ってるの、私よ。智子よ」 「あ!智子ちゃん!ごめんごめん、冗談だよ」 「智子ちゃん?」 智子は違和感を覚えた。 由美はいつも「智子」と呼ぶ。 「智子ちゃん」なんて呼び方をしたことは一度もない。 「最近どう?元気?」 「うん、元気だよ。毎日充実してる」 これも変だった。 由美が「充実してる」なんて言葉を使うだろうか。 電話を切った後、智子は不安を感じていた。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 翌週の土曜日、智子は由美を食事に誘った。 「久しぶりね、由美」 「そうだね、智子ちゃん」 またその呼び方だった。 智子は由美の顔をじっと見詰める。 確かに由美の顔だが、どこか違って見える。 「最近、仕事はどう?」 「仕事? まぁ、うん...普通かな」 由美の答えは曖昧で、まるで仕事のことを考えていないようだった。 以前の由美なら、同僚の愚痴や仕事の悩みを詳しく話してくれるはずだ。 「何か変わったことない?新しい趣味とか」 「特にないよ。変わらない毎日」 嘘をついている。 智子にはわかった。 由美の目が泳いでるし、絶対に何かを隠している。 「由美、正直に言って。何か隠してることない?」 「え? 何も隠してないよ。なんでそんなこと聞くの?」 由美は慌てたように手をひらひらと振った。 でもその仕草すら、いつもの由美とは違って見える。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 数日後、智子は由美の家を訪れることにした。 「突然ごめん。近くに来たから寄らせてもらった」 「あ、智子ちゃん。どうぞどうぞ」 由美は拒むことなく智子を家に招き入れた。 部屋に入った智子は、一見何も変わったところはないと思った。 しかし、よく観察してみると、由美の様子がどこかソワソワしている。 まるで、この後何かが控えているような雰囲気だった。 「コーヒー飲む?」 「うん、お願い」 由美がキッチンに向かった時、智子は部屋を見回した。 特に変わったものは見当たらない。 しかし、クローゼットの前だけなぜか嫌な空気が漂っているように見えた。 「はい、どうぞ」 「ありがとう」 1時間ほど話していたが、由美は時々時計を見たりしてソワソワしている。 まるで智子に早く帰ってもらいたがっているようだった。 「じゃ、今日はそろそろ帰るね」 「そう? また今度ゆっくり話そうね」 由美の表情に、わずかな安堵の色が浮かんだ。 智子はそれを見逃さなかった。 その夜、智子は決断した。 「由美、本当にごめんね。でもあなたを救いたい」 翌日、智子は小型の隠しカメラを購入した。 友人のプライバシーを侵害することへの罪悪感はあったが、由美の様子があまりにも異常だったからだ。 再び由美の家を訪れた智子。 今度は「忘れ物をした」という口実だった。 「この前、イヤリング落とさなかった?」 「イヤリング?見てないけど...」 由美が洗面所に向かった隙を狙って、智子は部屋が一望できる位置に隠しカメラを設置した。 録画状態にして、目立たない場所に隠す。 心臓が激しく鼓動している。 バレたらどうしよう、でも由美を救うためなら仕方ない。 「見つからなかった。また今度探してみるね」 「そうね。見つかったら連絡するよ」 智子は何事もなかったように家を出た。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 3日後、智子は近くに来たからと言って再び由美の家を訪れ、カメラを回収した。 由美は特に何も触れてこなかったので、恐らくバレていないようだった。 その夜、智子は急いで家に帰ると震える手でカメラの映像を再生した。 映像は智子が帰るところから始まっている。 そして由美が部屋に戻ってくると、一直線にクローゼットに向かった。 そして中から見慣れない衣装を取り出している。 「何あれ...?」 由美は何のためらいもなく服を脱ぎ始めた。 そして取り出した奇妙な衣装に着替えていく。 最初に着たのは、全身を覆う肌色のタイツのようなものだった。 足先から丁寧に通し、全身を包んでいく。 智子には由美が何をやっているのかまったくわからなかった。 次に黒いドレスを身に纏う。 端から見れば、由美の美しいプロポーションに映える綺麗な黒いドレスだった。 しかし直後、智子に衝撃が走った。 クローゼットの奥から、人間の頭部のようなものを取り出したのだ。 「え...!? ちょっと...嘘でしょ?」 由美はその頭部のようなものと、何やら会話のような仕草をしている。 音声は上手く聞き取れないが、まるで誰かと話しているような様子だった。 「由美...あなた一体何をやっているの?」 智子は思わず口を覆った。 親友の異様な行動に、恐怖すら感じていた。 これ以上映像を見続けるのが正直怖かったが、智子は覚悟を決めた。 由美にいったい何が起こっているのか、知らなければならない。 そして映像の中の由美は、その頭部のようなものを二つに分割すると、そのまま自分の頭に被り始めた。 「ん? あれって、着ぐるみってこと?」 智子は驚愕した。 由美が被っているのは、精巧に作られた人形の頭部だった。 その瞬間、由美は完全に別人になった。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ --- 別人格の出現 マスクを被った由美の動きは、それまでとは全く違っていた。 内気で大人しい由美からは想像できない、堂々とした立ち姿に優雅で計算された動作。 まるでこの世のものではない何かに取り憑かれたかのような由美の姿に、智子はもう涙が止まらなくなっていた。 「由美...あなた一体どうしちゃったのよ...」 映像の中の由美...いや、もはや由美ではない何かは、鏡の前で行動をとっている。 プロのモデルのような完璧な動作。 由美にはできるはずのない表現力。 中には思わず目を背けたくなるような行動もあった。 「これは由美じゃない... こんなの絶対に由美じゃない...」 智子は画面を食い入るように見詰めていた。 その後、映像の中では2時間にわたって異様な儀式が続いた。 最後に由美がマスクを外した時、そこには汗だくになった見慣れた由美の顔があった。 しかし表情は満足感に満ち、まるで麻薬でも摂取したかのような恍惚とした表情だった。 そして映像が終わった時、智子はある事に気付くと同時に背筋が凍った。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 「この映像は、3日前のもの...」 智子はハッと我に返った。 ということは、今この瞬間も由美は同じことをしているかもしれない。 慌てて由美に電話をかけるが、出ない。 何度かけても応答がない。 「由美...」 智子は確信した。 由美は何かに支配されている。 あのマスクのようなものを着けることによって別の人格が生まれ、その人格に本来の由美が侵食されようとしているのだ。 「助けないと!」 智子はすぐに由美の家に向かおうとしたが、冷静に考えると今行っても家に入れてくれるわけがない。 由美が変身している最中なら、なおさらだ。 智子は再びカメラの映像を再生した。 由美の瞳から光が失われ、別の人格がその身体を操る様子は、あまりにも痛ましく、智子の胸を締め付けた。 「これは由美じゃない… 私の大切な親友じゃない…」 智子は一晩中、由美の部屋の映像を見ながら考え続けた。 警察を呼ぶべきか、精神科医に相談すべきか。 しかし、由美が秘密にしていたこの奇妙な行動を、他人に話すことは由美の尊厳を傷つけることになると感じた。 智子にできることは何か?どうすれば由美を救えるのか? そして夜明け前、智子は一つの結論に至った。 由美を救うためには、彼女が最も恐れているもの、つまり「セレナが自分のものじゃない」という現実を、彼女自身に突きつけるしかない。 「ごめんね、由美。でもあなたを救うためなら、私はどんなことでもするわ」 智子は自らがセレナになるという、危険で狂気じみた計画を決意した。 それは、友人への深い愛情と、一筋の光にかけた由美への想いだった。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 翌朝、智子は会社に欠勤の連絡を入れた。 そして由美の家の前で待機した。 朝7時30分。 由美がいつも通り出勤するためにマンションから出てきた。 「由美、おはよう」 「あの...えーっと、すみません。どなたでしょうか?」 智子の心は痛んだ。やはり由美の記憶は曖昧になっている。 「また冗談? 私よ、智子よ」 「あ!智子ちゃん! ごめんごめん、冗談だよ。どうしたの?こんな朝早くに」 智子は用意していた嘘をついた。 由美の会社が今日は急遽休みになったという話だった。 普通の人間ならまず信じるはずのない話だが、今の由美にはすんなりと通ってしまった。 これは由美の判断力が著しく低下している証拠だった。 「そうなんだ、わざわざ教えてくれてありがとうございます」 由美は小さくお辞儀をすると、そのまま何の疑いもなく自分の部屋に戻ろうとする。 あの優しくて、可愛いくて、大好な由美の変わり果てた姿に、智子は涙を流しそうになった。 しかしぐっと堪えて、心に誓いを立てる。 「待っててね由美、絶対あなたを救ってみせるから」 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 智子は家に上がりたいと申し出た。 由美は拒むことなく智子を招き入れる。 二人は由美の部屋に入ると上着を脱ぎ、ソファでくつろいだ。 智子は昨夜映像を見る時に、由美がつぶやいていたある名前を頭に何度も浮かべていた。 「セレナ」 あいつを由美から追い出さなければならない。 由美がコーヒーを淹れてくれた時、智子は用意していた睡眠薬を少量混ぜた。 友人を騙すことへの罪悪感はあったが、これも救済のためだった。 「はい、智子ちゃんどうぞ」 「ありがとう」 しばらく談笑していると、由美はそのまま深い眠りに落ちてしまった。 智子は由美が完全に眠ったことを確認すると、由美の会社に病気で休むという連絡をした。 そしてすぐにクローゼットを開ける。 目の前には映像で見たあの肌タイツと黒いドレス、そしてその奥に人形の頭部のようなマスクが置いてある。 「これがセレナね」 智子はセレナの衣装を取り出すと、服を脱いで下着姿になった。 すぐにセレナの着ぐるみを処分することも考えたが、今の状態でセレナを急に消してしまうと、その後の由美の精神状態が崩壊してしまいそうで怖かった。 智子が考えた由美の救済方法はこうだった。 自分がセレナの着ぐるみを着て由美の前に現れ、由美の中にセレナが居ない状況を作る。 そしてセレナと由美が完全に分離してから、再び由美の自我を取り戻させ、最終的にセレナの着ぐるみを処分する。 この方法しか由美を救う方法はないと智子は確信していた。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ --- 智子の変身 智子は着ている服を脱ぎ、映像を思い出しながら慎重に肌タイツを着込んでいく。 冷たく人工的な質感が肌を包んでいく。 足から腰、胸、腕...全身が肌色の人工的な素材に覆われていく。 「こんな感じかな...」 次に黒いドレスを着用する。 由美よりも身長が高い智子だが、ドレスは意外にもフィットした。 そして最後に、セレナのマスク。 智子は少し躊躇した。 「これを被ると、私もあんな風になるんじゃないだろうか。」 「いや、迷っちゃダメ!由美を救うんだ!」 智子は覚悟を決めてマスクを手に取った。 前面と後面に分かれた構造。 内側には柔らかなスポンジが張り付けられている。 前面パーツを顔に当てがう瞬間、冷たく硬い感触が頬に触れた。 「うぅっ...」 スポンジが顔の輪郭に密着していく。 思っていた以上の圧迫感だった。 後面パーツを装着し、耳の上の金具を留める。「カチリ」という音とともに、智子の世界が一変した。 視界が狭まり、呼吸が浅くなる。 これまで経験したことのない閉塞感に、パニックになりそうになった。 「苦しい...こんな状態で何時間も由美は... でも頑張らなきゃ...」 最後に漆黒のロングウィッグを被せる。 そして智子は恐る恐る鏡に近づく。 映った自分の姿を見て、智子は息を呑んだ。 「綺麗...」 そこには美しく、妖美なセレナが立っていた。もう智子の面影は一切ない。 智子はしばらく自分の姿を見ながら、思わずポーズを取ってしまった。 「これ...すごい...こんな世界があったなんて... 本当にわたしなの?」 智子は鏡に映るセレナに手を伸ばす。 「私でもハマってしまいそう...」 美しいセレナとしての自分に見惚れる智子。 しかし同時に、由美がこの魅力に取り憑かれてしまった理由も理解できた。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 智子がセレナに変身してからしばらく時間が経っていた。 マスクを外したい衝動に駆られているが、由美が起きた時にセレナの姿でなければ意味がない。 息苦しさに耐えきれなくなった時は、マスクを少しだけ外して呼吸を整え、再びマスクを被るという作業を繰り返した。 由美が目覚めるのを静かに待ちながら、智子は自分の計画を何度も確認していた。 まずセレナとして由美と対話し、由美とセレナを分離させる。 そして自分の正体を明かし、真実を告白する。最後に一緒にセレナとの決別を行う。 「うまくいくかしら...」 マスクの中で、智子は不安と決意を抱えていた。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 【覚醒と救済】 午後2時頃、ついに由美が目を覚ました。 「ん? あれ...私、なんで寝てたんだろ...」 ぼんやりとした意識の中で、由美は自分の部屋を見回した。 (智子の緊張と不安) マスクの中で智子の心臓は激しく鼓動していた。 「由美が起きた...いよいよね」 視界の狭いマスク越しに由美を見詰めながら、智子は深く息を吸い込もうとした。 しかし鼻の小さな穴からは十分な酸素が入ってこない。 「苦しい...でも頑張らなきゃ」 額にはすでに汗が浮かんでいる。 緊張と、長時間のマスク装着による息苦しさで、智子の身体はすでに限界に近づいていた。 「由美...お願い気づいて。本当の敵はセレナなのよ」 マスクの内側で智子は必死に自分に言い聞かせていた。 この計画がうまくいくかどうか、全くわからない。 でも由美を救うためには、これしか方法がないのだ。 「私がセレナの姿でいることで、由美とセレナを分離させる...うまくいってくれるといいけど...」 智子の手のひらは汗でべっとりと湿っていた。 マスクの中で自分の呼吸音だけが大きく響いている。 そして由美が部屋の隅にセレナが立っているのを発見した瞬間、智子の心は一気に緊張で張り詰めた。 直後、由美は錯乱状態に陥った。 「え...えええ!? なんで??なんでセレナがここに?」 智子は内心で動揺していた。 由美が後ずさりするのを見て、智子は慎重に手を差し伸べようとした。 しかし視界が狭いため、正確な距離感がつかめない。 「どういうこと? 私の部屋になんで? 私のセレナなのに!」 由美の言葉を聞いて、智子はセレナへの所有欲がどれほど強いかを実感した。 智子の心は痛んだ。 由美にとってセレナは、もはや生きていく上で不可欠な存在になってしまっていたのだ。 智子(セレナ)はもう一度手を差し伸べようとしたが、マスクによる視界と動作の制限でやはり上手くいかない。 「触らないで!! あなた誰? なんで私のセレナの姿をしてるのよ!?」 由美にどう声をかけたらいいのか分からない。 この計画が失敗すれば、由美を救う手段がもうなくなってしまうのに。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 由美の混乱は完全な暴走に変わった。 目は血走り、呼吸は荒く、まるで野生動物のような状態だった。 「返して!ねえ返してよ! セレナを返して!!」 由美の声は甲高く、喉が枯れるほどの絶叫だった。 普段の由美からは想像もできない凶暴性を露わにしている。 「それは私のよ!!私だけのセレナ!!」 由美は智子に飛びかかった。 爪を立てて智子の肌タイツを引っ掻こうとする。 普段は絶対に言わないような酷い暴言を吐きながら、まるで憑依されたかのように智子を攻撃する。 「泥棒! 人のものを勝手に! 汚らわしい! 汚い手でセレナに触らないで!!」 由美の手は震え、全身が小刻みに痙攣している。 セレナとの分離による禁断症状のような状態だった。 「セレナは私を愛してくれてたのに! あなたなんかにセレナの何がわかるのよ!」 涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔で、由美は智子の胸を叩き続ける。 その力はとても強く、智子は痛みを感じていた。 「ねえ、なんで邪魔するの? なんで私から奪うの? 私が何をしたって言うの?」 由美の声は泣き叫ぶような絶望に満ちていた。 セレナこそが自分の存在意義だったのに、それを奪われる恐怖で完全に理性を失っている。 「返してよ...お願い...セレナを返して...」 しまいには由美は床にへたり込み、智子の足にすがりついて懇願し始めた。 「由美、落ち着いて...」 智子はセレナの声で必死に語りかけたが、由美の狂乱は止まらなかった。 マスクの中で智子の視界は涙で霞んでいる。 こんな状態になった親友の姿を見るのが辛かった。 「由美、私よ...」 智子は優しく手を差し伸べようとしたが、由美は智子の手を叩き落とした。 「触らないでよ! 偽物のくせに!!」 由美が再び飛びかかってきた時、智子は咄嗟に由美の両手首を掴んだ。 「由美! やめて!」 しかし由美の力は異常だった。 細い身体のどこにこんな力があるのかと思うほど、激しく抵抗している。 智子は必死に由美を押さえ込もうとしたが、マスクによる視界の制限と呼吸の困難さで思うように動けない。 それでも友人を救うという強い意志で、由美の暴れる身体を抱きしめた。 「はぁ...はぁ...」 マスクの中で智子の呼吸は限界に近づいていた。 酸素不足で頭がくらくらするが、由美を離すわけにはいかない。 「由美... もうやめて... お願いだから...」 智子の声は震えていた。マスク越しでも、その必死さが伝わってくる。 由美は智子の胸の中で暴れ続けたが、徐々にその動きが弱くなってきた。 激しい感情の爆発で体力を消耗したのか、それとも智子の温かさが伝わったのか。 「うっ...うぅ...」 由美は智子の胸の中で嗚咽を始めた。 先ほどまでの凶暴性が嘘のように、今度は子供のように泣きじゃくっている。 智子はそんな由美を、より強く抱きしめた。 マスクの中で自分も泣きながら、友人の痛みを受け止めようとしている。 「大丈夫... 大丈夫だから...」 こんな風になってしまった由美を見るのがとても辛く、智子の心は張り裂けそうだった。 でも諦めるわけにはいかない。 どんなに由美に拒絶されても、攻撃されても、この友人を救い出すのだ。 「由美...私はあなたを傷つけるためにここにいるんじゃない...」 智子の声は優しく、そして確固たる決意に満ちていた。 智子は由美を抱きしめたまま、セレナとして語りかけた。 「由美...長い間、一緒にいてくれてありがとう」 「え...?」 由美の暴れる手が止まった。 「でも、もうお別れの時よ」 「何言ってるの? 私たちはずっと一緒にいるって...」 「違うの。あなたには、セレナじゃない由美として生きてほしい」 智子の言葉に、由美の表情が変わった。 「そんな... いや、置いていかないで!」 今度は由美が大泣きしながら懇願し始めた。 「私も連れてって! セレナと一緒にいたい!!」 その瞬間、智子は気づいた。 「(今、私もって言った!!)」 由美とセレナが分離した。 今の由美は、セレナに憧れる、本来の田中由美として話している。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 智子は自分の胸から弓を解放して後ずさった。 「由美……驚かないでね」 「え? セレナちゃん、何を……」 由美は困惑した。セレナが、なぜこんなことを? 普段の冷たくて完璧な彼女らしくない、その声の震えに、由美の心臓が不穏にざわめいた。 智子は震える手でマスクの金具に手をかけた。 その指先から伝わる感触は、もう由美を救うための道具ではなく、智子自身を縛り付けていた鎖のようにも感じられた。 「カチャ」 小さな音とともに金具が外れる。 智子はゆっくりと、まるで何かの重みを持ち上げるかのように、マスクを外していく。 まず前面パーツが外れ、汗で濡れた智子の顔が現れた。 その瞬間由美の口から、か細い声が漏れた。 信じられない、という顔で智子を見つめる。 「と...智子? なんで? なんであなたが...」 「ごめんね、由美。怖かったよね。でも、もう大丈夫だから……」 智子の目には、由美を心から心配する、いつもの優しい光があった。 それは、セレナの冷たい瞳とはまるで違う、温かさに満ちた瞳だった。 直後、由美の瞳から大粒の涙が溢れ出した。 それは恐怖の涙ではなく、智子に救われたことへの安堵の涙だった。 智子はゆっくりと優しく、もう一度由美を抱きしめた。 「由美、おかえり。よかった」 智子は泣きながら優しく由美を包み込む。 由美は親友の無謀で、しかしどこまでも温かい行動に、言葉を失って泣くことしかできなかった。 この世でたった一人、自分の心を守ってくれた智子。 彼女の温かい涙が、由美の心をゆっくりと溶かしていくのだった。 「由美、あなたを救いたかった」 智子は涙を拭きながら説明した。 「最近のあなた、おかしかった。私のことも忘れそうになってたでしょ? あの映像を見て、すべてがわかったの」 「映像?」 「あなたがセレナに変身している映像よ。あれはどう見ても由美じゃなかった」 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ --- 真実の告白 智子は隠しカメラのことを正直に話した。 「ごめんなさい。あなたのプライバシーを侵害して。でも、あなたが心配で」 由美は自分の手を見詰め、震え始めた。 「私... 私は、何をしてたの? ちょっと最近、記憶が曖昧で...」 「多分、セレナに支配されそうになってたのよ。あなたの中にいたもう一人の人格に」 「その映像、見ることはできる?」 「見ない方がいい。それにデータは消したから安心して。」 「そう。。」 智子は由美の肩を抱いた。 「でも大丈夫。今、あなたは由美として話してる。セレナと分離できたのよ」 由美は涙を流し始めた。 「智子...わたし、怖かった... 自分が自分じゃなくなっていくのが怖かった...でもやめられなくて...」 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ --- セレナとの決別 智子は肌タイツとドレスを脱ぎ、由美の前に置いた。 「由美、一緒にこれを終わらせましょう」 「でも...」 由美は躊躇していた。 「私なんて平凡で何の取り柄もない...セレナみたいに美しくなれるのは、あの時だけだった...」 「そんなことない!」 智子は強く言った。 「あなたは優しくて、思いやりがあって、一緒にいると安心できる。それが由美の魅力よ。セレナなんかより、ずっと美しい」 由美は涙を流しながらセレナのマスクを手に取った。 「ありがとう、セレナ...でも、もうお別れなんだね」 「一人じゃ怖いでしょ? 一緒にやろう」 二人でマスクを持ち、ゴミ袋に入れた。 「これで終わり。もう由美を苦しめることはないわ」 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ --- 新しいスタート 2週間後、二人はカフェで向かい合って座っていた。 「最近調子はどう?」 「まだ時々、セレナになりたい衝動があるけど... でも智子がいてくれるから大丈夫」 由美の表情は、以前の明るさを取り戻していた。 「何かあったらすぐ連絡してね。絶対に一人で抱え込まないで!」 「ありがとう...智子が居てくれて良かった。 あの時、助けてくれて本当にありがとう」 「友達なんだから当然でしょ、由美のためならなんだってやるわよ!」 智子は微笑んだ。 由美を救うことができた。もうこれで安心だ。 「ねぇ、今度さ、一緒に旅行でもしない? 温泉とか」 「いいね!! 智子と一緒なら楽しそう」 こうして二人は楽しそうに旅行の計画を立てていた。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 【エピローグ】 由美とカフェで別れた後、智子は自分のマンションに帰ってきた。 「ふう、疲れた」 彼女は疲れた体をソファに沈めた。 窓の外の夕焼けをぼんやりと眺めながら、智子はこの上ない感情に満たされていた。 久しぶりに由美と再会し、すっかり元気になっている姿を見て心底安堵していた。 「もう、由美は大丈夫。今度の旅行も楽しみだな」 智子は微笑みながら安堵した表情で立ち上がり、着ていた服を次々と脱いでいく。 服が床に落ちる音だけが、静寂な部屋に響いている。 下着姿になった智子がクローゼットを開けると、中には見慣れたものが掛かっていた。 ---肌色のタイツと、黒いドレス。 その奥には、あの時由美と一緒に処分したはずのセレナのマスクが美しい微笑みを浮かべて置かれていた。 智子の表情がゆっくりと変わっていく。 いつもの明るい笑顔が消え、代わりに不気味な微笑みが浮かんだ。 智子はマスクにそっと手を伸ばす。 そして小さな声で、まるで恋人に語りかけるように囁いた。 「ただいま、セレナ」 部屋のカーテンが風で揺れ、夕日が智子とセレナを妖しく照らしていた。 【完】