慎也はあの日以来ジムに来なくなった。連絡も取れない。ジムの面々はかなり動揺していたようだったが、章介は不思議と落ち着いていた。
あの日の様子はただ事ではなかった。何より章介自身も会えば余計なことを言ってしまいそうという恐れもあり、この形は彼にとっての救いでもあった。
一晩寝れなかった。彼がどこか遠くに行こうとしていることだけが分かり、うんざりするほど天井を見つめては息を吐く。
結局、結論は変わらなかった。
邪魔をしない。慎也が選び、決めることだ。
「(俺には今、やるべきことがある)」
今は自分のやるべきことに集中するべきだ。
俺がキックボクシングで頂点を極める日が来たなら、いずれ会うこともあるだろう。そんな気がしてならない。
⚪︎
今日は結衣のパーソナルトレーニングの日だった。あいにくの雨が降っており、「ひゃ〜濡れちゃう〜」と結衣がジムに到着した直後に大雨が降り始めた。
シフトがないこともあって今日は敦はいない。体を動かす目的でくることもまあまああるが、雨予報で萎えたのかもしれなかった。
着替えた結衣はいつものTシャツとスパッツ姿だったが、彼女の髪からは雨の香りが混じった不思議な匂いがした。
一瞬、変な気持ちが鎌首をもたげてくるが即座に頭から締め出す。ただでさえ結衣の顔だけ見て話すのに少し集中力がいる(それでも主張の強い体が視界の端に入ってきてしまうのだった)のにこんな体たらくではいかん。
「ねえ章介くん」
「なんです?」
サンドバッグを叩く結衣が気負いのない声で尋ねてきた。
「キックボクサーって、職業としてどう?」
「え?」
「えっとね、章介くんは大学卒業したらプロ格闘家一本でやってくわけでしょ?そしたら生活がかかるじゃない?」
「えぇ、まあ」
「試合に勝たないとお金って出ないんでしょ?」
「基本そうすね」
「不安じゃないの?格闘技って、あんまりお金もらえないんじゃない?ほら、戦力にならない野球選手とかはサラリーマンとかやってかないと食べていけないみたいな感じで………」
「自分の場合はそうでもないすね。ちゃんと勝てばファイトマネーは出るし」
「バイトもしてるし大変でしょ?その………」
気のせいか結衣がソワソワしているように見える。
いつもより会話が長く続いている。よほど気になることなのだろうか?
「(ふむ………)」
結衣もかなり打ち解けてくれてきた(ように思う。勘違いでなければ)し、相変わらず真面目に練習をしている。章介は務めて結衣の顔を見るようにしながら、ぶっ込み気味の質問に答えてあげることにした。
「ああ、金額すか。まあ、バイトとは比較にならないくらい」
「そ、そうなんだ〜。じ、じゃあさ。プロの人って、平均どのくらい稼いでるのかな?例えば………国内王者とか!」
「…………TV放映絡めば、一試合で下手な年収くらいはいくんじゃないすか?」
「え〜?それってほんと?」
「世界戦とかになればまた違いますし、そもそもトップでなくても上位なら1試合あたり悪くないすよ」
「そう………なんだぁ〜………」
サンドバッグを叩く音が軽くなる。見れば結衣が何か考えるような素振りをしていた。
「…………結衣さん」
「うぇっ!?な、なぁに?」
「結衣さんはOLさんやられてて、転職したいとか思ったことあるんすか?」
「転職?それはもうしょっちゅうだよ〜w」
再びサンドバッグを叩く音が強くなる。質の違う振動と音が鳴り響いた。
「(やっぱり筋がいいな)」
パンチのキレやキックのフォームは素人のOLのレベルをとうに超えていた。もともと運動が得意なわけではなさそうな結衣がこれほどの成長を見せるとは分からないものだとつくづく思う。飲み込みが早く、どうやら才能にも恵まれていたようだ。
章介と結衣はしばらく話し続けた。
「やっぱ皆仕事嫌なんすね」
「フツーそうだよ。仕事なんてやりたくてやるもんじゃないし」
「結衣さんはなんかやりたいこととかありますか」
「やりたいことな〜………」
結衣はやや上の空に答えていたが、少し俯いて呟くように言った。
「……配信者とかいいかも」
「なんちゃらルイみたいな奴ですか」
「え?wなにそれ〜!ww」
「俺もよく分からないすけど、なんかいますよね。なんたらチューバーってやつ」
「うんうん。あーいうのいいよね。楽しそーだし、嫌なことさせられてる感じじゃなくて、好きなことしてお金貰えるみたいでさ」
「結衣さんもなりたいです?その………配信者」
「なれたらいいね〜。そしたら……」
結衣が控えめな笑みを浮かべた。いつもとは違ってどこか冷めた印象のある、そんな笑いだった。
「仕事なんか辞めて、得意なこととか楽しいことして、人生楽しく暮らせそうだよね」
「……………」
遠くで雷が鳴る音がした。
低く唸るような音が、今日に限って何故か妙に気になった。
雨は真夜中まで続いた。
⚪︎
パンパンッ!ズドッ!!
ジャブストレートからのローで大きく揺れるサンドバッグを、章介は手で押さえた。
既に顎からは汗が滴り落ち、Tシャツは半分以上が濡れて色が濃くなっていた。かなりの時間打ち込んでいたようだ。
「………」
次の試合が決まった。
ここからはいつものやり方で良い。試合日に向けて日々練習していくだけだ。
余計な考えはいらない。意味の無い考え事はする必要が無い。
「………っ」
いつも通り打ち込めば良いのだ。慎也だって言っていた。しっかり仕上げればどんな相手にだって勝てるはずだーーー
「………くそっ!!」
乾いた打撃音と共にサンドバッグが揺れる。
集中力が落ちていることが自分でも分かる。余計なことを考えすぎだ。
それもそのはずだった。
1ヶ月前から敦が来なくなった。
ジムに全く顔を出さないのだ。それどころか連絡すらつかない。
一体何があったのかすら分からず、悶々とする日々が続いている。親友が気になり、練習していてもどこか集中できないのだ。
そしてもう一つ。
事務所に戻った章介が壁にかかっているホワイトボードを見る。そこにはジムと契約しているクライアントの予定表が書き込まれていた。
「…………」
結衣の欄は1ヶ月前を最後に空欄が続いている。
結衣も敦と同じ頃からジムに来なくなっていた。
最後のパーソナルトレーニングの予定日に来なかったのだ。待てども連絡すら来ず、もう来ないであろうことを理解せざるを得なかった。
彼女が真面目に練習していたように感じていた分、残念な気持ちは大きかった。
慎也がいない今、2人が同時に消えたことは章介を少し消耗させていた。
ジムでの仕事を終えて帰宅した章介は天井を見上げてため息をついた。
「(なんだかなぁ……)」
辞めるというなら仕方ないが、連絡も無いのは彼をモヤモヤさせる大きな要因だった。
一言でいいから言ってくれればここまで思い悩むこともなかったのだが。
陰鬱な気分でいると、帰宅して早々付けたPCからメールの通知音が聞こえた。
見たこともない送り主だ。「バトルン」、そう書いてある。
取るに足らない迷惑メールだと思って無視しようとした章介の目に飛び込んできたのは「プロキックボクサー 久我章介様」という文言だった。
⚪︎
指定された場所は県境付近にある廃ビルだ。10年前に倒産した中小企業のものだったが、章介はそれを知る由もなかった。
電車で最寄りまで向かう。
すでに20時を回っている。外は暗かったが、どうやら空模様は芳しくなかった。
章介は車内で立ち尽くしながら窓の外を穴の開くほど凝視していた。
⚪︎
バトルンからのメールには章介の実力を讃えるメッセージと、良ければ我々の催しに参加して共に盛り上げてほしいというメッセージが付いていた。
『実績あるあなたを特別会員として招待したい』
メールに記載されていたurlに飛び、『会員番号』及び『パスワード』をコピー&ペーストして貼り付ける。
あからさまに怪しいメールの指示に従う理由など無いはずだった。
しかしそのメールには章介の所属するジムの監視カメラ映像、知られるはずのない事務所内の会話、そして最近の章介の状況が詳細に添付、または語られていた。
警察に相談した方が良い。
真っ当にそう思った章介は、同時に慎也のことを思い出していた。
あの時になるまでおくびにも出さなかった格闘技に向けた本当の想い。唐突な行動。
もしやあれは長年抱えてきた感情を抑えきれなくなったのではなく、常に抱いていた違和感へ答えを不意に用意されたことにより何者かから引き摺り出された反応だったのではないか。
メール主は法を超えた行動を取っている。こんなことはアウトローのやることだ。ロクな奴らじゃないはずだ。
しかし、章介にとってはあまりにもタイミングが良かった。
章介の心の奥底に沈めたはずの慎也への想いを見抜かれ、このメール主は的確にそこをつついてきたのだ。
『お前にだけ教えてやろう。お前が尊敬する格闘家の行き先を』
まるでそう語りかけてくるかのようだった。
これ見よがしに垂らされた情報の糸を全力で掴んで手繰り寄せ始める自分を止めることができず、章介はenterキーを押す。
サイトが表示された。左上に『バトルン』、右上に『マイページ』。まるでそこら辺のサブスクサイトのようだ。冗談のような情報から、しかし章介は目を離せなかった。
中央下段から続く長い項目群が目に付く。そこには名前がずらりと並び、横には○と×の記号が無秩序に並んでいる。勝敗表示だ。ラウンド表記は無く、決着の秒数が書かれているのみだった。
本名のような感じだけの名前、リングネームと思われる名前、星マークまで使ったふざけた名前まで沢山ある。
「(一体何試合組んでるんだ……!?)」
これらの情報がハリボテでないなら、このバトルンというサイトを運営する奴らは2〜3人ではない、そこそこ以上の規模の法人並みだ。なにしろスクロール終わりに1.2.3.4.5〜103という表示があった。
一体いつからこんなイベントを?何の目的で?章介は招待制だと思っていたが、これだけの人数を見ると一般人が参加する術があるのか?どうやってこのサイトを知るんだ?まさか、そこら辺のジムをくまなくマークしてスカウトしてるのか?ばかな、そんなバカバカしい。だがこいつらは一体……。
他にも気になるのは星取の横に並ぶ名前の中に混ざる女性と思しき名前だった。なぜ男女混合で戦っているんだ?これはまさか何かの見せ物なのか?格闘技だと思っていたが、ロクでもない奴らが見守る悪趣味なイベントなんじゃないのか?
騙されたんだろう。こんな出鱈目なサイトがまともなわけがない。
章介はふと我に返った。馬鹿げている。あまりのことに冷静さを欠いてしまったのだ。
「(うわダッセぇ………)」
自己嫌悪に陥りながら、先ほどのジム映像に始まる諸々を思い出す。
今日は遅いが、ジムに連絡を入れておこう。悪質ないたずらか、ストーカーか。とにかく大変なことが起きている。警察に連絡しなければならない。
ここにきてようやくPCがウィルスに感染してないかが気になり、薄ら寒いものを感じ始めーーー
ふと、サイトの検索欄に気がついた。
「(……………)」
まさかな。
そう思いながら指先を動かしてしまった。思えば『はずみ』だった。冷静になったつもりでも、まだパニックだったのかもしれない。
ヒットした。
してしまった。
プロフィールと共に表示された試合結果にはこうあった。
『吉間慎也× ⚪︎YUI 256秒』
⚪︎
『バトルン登録から試合までの流れの説明』
・サイトへの登録方法は二つ。
まずは招待制。著名な格闘家などはサイトの運営側から声がかかることもある。
次に一般参加。資格は必要無いが、バトルンのユーザーは参加方法を問わず試合中の怪我への補償が一切無いためリスクが高い。
・登録したらプロフィール作成画面へ。年齢、性別、身長、体重、格闘技経歴を入力していく。これらの情報を元にサイトが自動的に試合相手を見繕ってくれるが、特定の相手を探してマッチング申請を送ることも、マッチング申請を受けることもできる。登録した格闘技経歴によるマッチングの制限は無い。
・マッチングが成立したら日時と場所が指定される。試合をする場所はサイト運営側の所有する建物で行われる。試合会場にはリングが設置され、それを囲むように天井にカメラが設置されている。
・到着して準備ができたら予め手持ちのスマホに登録したアプリを起動して試合開始操作。両者がアプリにて試合開始操作してから10秒後に試合開始のブザー(会場に備え付けられている)が鳴るが、アプリ操作後10秒経過していないにも関わらず殴りかかった場合は会員資格を剥奪されて重いペナルティを課される。カメラで試合前後の様子は監視されているため変なマネはできない
⚪︎試合のルール
・インターバル無し
・レフェリー無し
・凶器、引っ掻き、噛みつき以外は何でもあり。頭突き、肘打ち、急所攻撃OK
・どちらかの降参か試合続行不可能を以って決着とする。
⚪︎
章介は一つ下の階で着替え、階段を上がった。そこには下の階までの風景が嘘かのようなセットが組まれていた。
中央のリングを中心に照明が囲み、天井付近には複数箇所にカメラ。配線がリングを取り囲み、リングの上にはーーー
見慣れた顔があった。
「あ、きた」
久しぶり、の一言もない。本当にただ、「待っていた対戦相手が来ただけ」という感じの反応だった。
『YUI』というリングネームだけでは津野結衣であるかまでは分からなかった。だが、目の前の人間は間違いなく自分が担当したクライアントだった。
章介は歩を進めた。
結衣はこちらの顔を認識しているにも関わらず表情がまるで変わらない上、軽い挨拶の仕草すら無い。
最後に会ったのは数ヶ月前のはずだ。だが、今の彼女は当時とは別人のように見えた。
コスチュームもーーー
「みんなー!!お相手さんが来たよ!いよいよ始まるから皆で盛り上げてこーねー!!」
唐突に振り返って誰もいない空間にアピールし始める結衣。
「(…………?)」
よく見ればそこには人こそいないが、ノートPCの画面があった。右側に黒く細かい何かが滝のように流れていく。左側は……結衣とリング、そして今しがたリングに上がろうとしている無表情の章介が映り込んだ。
配信画面だ。
章介は知らないことだったが、バトルンはサイト外への配信や動画配布を禁止しており、逆にサイト内限定配信は許可している。バトルンサイト内であちらこちらに配信を薦める文言があるため、運営側もそういう利用方法を推しているのだろう。
感情の伺えない顔でリングの中央に進む章介。すでにアプリの操作は終えている。後は結衣がスマホをいじれば、10秒後に始まる。
「皆聞いてー!お相手さんはキックボクシング使うみたいだから、さっきも言ったけどまずは立技だけで戦うからね!頑張るからよろしくっ!!⭐︎」
再び流れが速くなるコメント欄。
章介は瞬間、体の中心が沸騰するような感覚を覚えた。
殺意に近いものが首元まで上がってくるが、
「(………………)」
体の隅々にまで意識を行き渡らせる。
相手の意図はどうでもいい。俺はただやるだけだ。
体が目覚めていく。試合前の状態に整っていく。いつものように。
「カウントダウン行くね!10!9………」
リング上からケース付きスマホをカバンに投げ入れる結衣。
章介の感覚は鋭敏に研ぎ澄まされていた。何にも心動かされることの無いよう、ただ静かに構え、見据えた。結衣の声もどこか遠くに行ってしまった。
怒りは静まった。良い感覚だ。
体がどこにどのタイミングでもバネのように動き出す確信と、冷めた思考。
「1!0ぉっ!!」
章介は動き出した。