「そうそう。かなり良くなってきてますよ、結衣さん」
格闘家が多く在籍する都内のジム。
大学生活の傍らジムトレーナーとしても働く久我章介(くがしょうすけ)は、利用者のサンドバッグを叩く音の変化を意外そうに、しかし嬉しそうに評価した。
「ほんと?嬉しいー!」
ジムの殺伐とした雰囲気を和らげるようなほんわかとした語り口の女性は、1ヶ月前にこのジムに入会したOLの津野結衣(つのゆい)だ。27歳の大人の女性としては雰囲気もあって若干幼いようにも見える。
「結衣さん、腰の回転だいぶ良くなってきましたね。手打ちだった頃に比べたらかなり様になってますよ」
「章介くんにそんなこと言ってもらえると励みになっちゃうな♪大学生なのに国内有数のキックボクサーだなんてすごいよね!」
「……1番じゃないですから。まだまだです」
章介は20歳。大学2年生だったが、すでにプロの試合に出始めている。各方面からの評価は、「数年以内にトップになる」だった。
「そうなの?じゃあベスト4くらい?」
「さあ、どうなんすかね」
「うーん………むずかしいね〜」
「そうすかね〜(………変な人だな)」
結衣はいまいち何を考えているのかわからない。割と天然なところがある。ただ、全く不快では無かった。彼女が纏うゆるい雰囲気のせいかもしれない。
それはそうと結衣はなかなかスジが良い。
パシッ!パンッ!
「(こんなふんわりした雰囲気の女の人で、「本格的にスポーツしたことはない」とも言ってた。なのに人は分からないもんだよな)」
エクササイズレベルとはいえ、なかなか様になっている。
汗をかきながらサンドバッグに打ち込む結衣の姿を見ながら、章介は考えていた。
(例え格闘技でなくても良い。体を動かすことの楽しさを知って欲しい)
それにしても………
大きな胸。肉付きの良い二の腕。そして日本人離れした丸々と大きい尻から太もも。ふくらはぎも発達している。
結衣とのトレーニングは思わず体に目がいきそうになるのを堪える時間でもあった。
彼女の体は女性的な魅力に溢れている。運動をしていない上アラサーだというのに体型がほぼ崩れておらず、彼女がパンチやキックを放つたび、色々と揺れるのだ。
今日の服装は大きめサイズのTシャツと膝丈のスパッツだが、それでも破壊力を殺しきれていなかった。
気を取り直すように時計を見る。ちゃんとやらねば。
そろそろ最後の種目だ。
「じゃあ最後にミット打ちやりましょう。それやったら今日はおしまいです」
「あ、ミット打ち?分かりました♪」
パシッ!
ミット打ちの精度も上がってきている。結衣自身も章介の手のひらに打ち込む時に楽しそうな表情を見せる。
「どうすか?スポーツやってて。楽しいとかあります?」
「そうだねぇ」
適当に相槌を打っているのか、肯定したのか微妙に分かりづらい返答をしながら打ち込む結衣。決してつまらなそうでも、辛そうでもないのだが…。
「……まあ、続けてく内に楽しみ方が増えてくるのも醍醐味ですよね」
「うんうん」
今度は年下の言うことを聞いてあげているような相槌だ。不快ではないが、なんだかズレている感じだ。
あまり楽しめていないのだろうか、勿体無いな。
そんなことを思い始める章介にーーー、
「あ、でもでも」
「?」
「ストレス発散にはなってるよ。ぱしんぱしんって楽しいしね!」
「いいすね」
「いいのかな?あたしは楽しいけど周りから見たら八つ当たりみたいな感じ、しない?」
「入り口はなんでもいいんですよ。マイケルジョーダンだってバスケ始めた理由は『モテたい』だって話は有名ですから」
「へえ〜!そうだったんだ。章介くん強いだけじゃなくて物知りなんだね!すごいね〜」
「……これって『物知り』の範疇に入るのかな?」
結衣が水を飲んでいる時、グローブを片付けている章介の肩を叩く者がいた。
「どう?彼女」
「どうもこうもねえよ。お客さんだぞ」
顔を上げなくてもわかる。どうせ敦(アツシ)のにやけ面が目に入ってくるだけだ。
敦は章介と同じジムで長いこと一緒に練習してきた仲間だった。高校に入ってから章介が頭一つ抜けてついて来れなくなった者達や、各々の都合や想いで辞めていったりする者達がいた中ただ1人残った男であり、章介とは気心の知れた中だった。
彼はもうプロを目指していない。将来は栄養管理士になるんだそうだ。それでもキックを続ける理由を「ま、ライフワークだしな」と言う敦に章介は何も言わなかった。才能や体格に恵まれない者達の限界に直面した友人に、章介は何を言う資格もないと分かっていたからだ。
ただ、そうした嘆きを見せることはなかった。それは彼の性格からくるものなのだろう。
「え?上達してるかどうかを聞いてんだぞ?」
「………」
「何々?なんか別のことと勘違いしてないか?」
「引っ叩くぞ………」
「仕事終わりならいけんじゃないか?お前もそろそろ彼女作れーーー」
「仕事に戻れや」
笑いながら事務所に戻っていく敦。
時計を見れば20時。帰り支度を終えた結衣を見送る。
「今日もありがとうね!章介くん」
「いえ、お疲れ様でした。あ、結衣さん!」
「ん?」
章介は結衣の目を見て語りかけた。
「もし気に入られたら是非続けてください。体を動かすのを続ければ健康面や精神面でも大きな効果が見込めますし、なによりきっと楽しいと思いますから」
一瞬、ぽかんとした表情を浮かべる結衣。しかし次の瞬間にっこり笑った。
「うん、分かった!」
ばいばい、と手を振って駅に歩いていく結衣。それを見送り、ジムに戻る章介。
「ショウ」
「あ、慎也さん!いらしてたんスね」
ジムの先輩が肩にポンと手を置いてくる。
現役最強でありながら家族の面倒を見るために引退したという衝撃的な経歴を持つ元王者、吉間慎也(きちましんや)だ。
章介が慎也に会ったのは12歳の頃だった。当時21歳、デビュー1年で国内2位の超新星だった慎也は負けず嫌いの章介を気に入り、以来8年間師弟のような関係が続いていた。
慎也は事情が事情なのでジムに顔を出す頻度は少なかったが、こうしてたまに顔を出しては章介と話してくれた。
「バイト終わった?」
「はい。これから練習です」
「感心感心。試合近いもんな。どれ、調子見てやっぞ」
「え、いいんスか!?」
「おう。ほれ上がれ」
「ラッキー」
簡単なミット打ちだが、章介は慎也との会話を楽しんだ。
「よし!調子いいな。ま、これなら問題ねーだろ」
「あス。でも、(今度の相手)結構やるみたいなんで……」
「どってことねえよ。かなり動けてるじゃん。お前が本気出して勝てない相手なんて日本にはいねーよ。自信持ってやれば余裕だろ」
「あざス!気合い入れてやるっス」
慎也は引退前、国内最強の名をほしいままにした天才だ。その彼と8年間切磋琢磨してきた章介もまた、比類なきファイターに成長しつつある。慎也はその事実を今一度思い出させてくれた。
「こんなとこか」
「ありがとうございましたっ!」
「1週間後か。よく休めよ」
「はい!あの………おばあちゃんの具合どうなんすか」
「ん?ああ、まあ年相応にな」
慎也が「世話になった祖母の面倒を見たい。復帰については後々判断する」と言い放って引退した時には騒然となったものだ。昔から彼はこうと言ったら決めてテコでも動かない。
おばあちゃん子だったようだ。祖母の最期に寄り添うことは決めていたのだろう。
「そうすか……」
「お迎え来るのはそういうもんだから悲しいとかってよりしょうがないって感じだな。なるようになっちまうわな」
「…………」
「なんだその顔は笑。お前はお前のことに集中しろっ!」
「うぉっ!?」
なにやら神妙な感じになってしまった雰囲気を吹き飛ばすような「パンッ」という
音がジムに響いた。慎也は歯を見せて笑い、強めに肩を叩かれた章介も釣られて笑った。
⚪︎
2R開始早々の決着だった。
レフェリーが腕を持って高々と上げる。
「勝者!久我ーーー章介ェーーー!!!!!」
割れんばかりの歓声。
終始冷静な試合運びだった。
1Rは開幕から前に出てくる相手のアグレッシブさにも動じず動きを見極め、隙というにも僅かな間を捉えてのジャブ→ストレートがキレイに決まってダウン。その後も堂に入った試合運びで相手のフットワークをローで奪い、インターバルを挟んで2度目のダウンを左ミドルで奪い、立てずに決着となった。
若くして30代の経験豊富な王者の如き試合運びを見せ、会場中を沸かせたのだった。
⚪︎
酒はあまり飲まないが、飲めないわけではなかった。
会長の満面の笑みと元気一杯の絡みに小一時間付き合わされた後、1時間ほどセコンド陣と談笑し、程よく酔いが回ってきた頃飛び入りで来た慎也の登場と章介への祝福に皆大盛り上がりして2軒目へ。
ハイボール祭りでダウンした者、それを介抱するもの、明日の予定のために上がるものなど各々が帰路に着き始める。
章介も慎也と最寄り駅まで歩くことになった。
並んで歩くと章介の方が少し背が高いが、やはり弟弟子としての感覚が強い。今でも慎也は章介の目標だった。
「俺、復帰するわ」
不意の一言だった。
章介はそれが意味するところを察し、ゆっくり慎也を見た。
「明日通夜だから、ジムに顔出すのは最速で3日後とかかな」
「そうスか………」
しばらく沈黙が落ちる。やがて章介が口を開いた。
「また一緒にやれるっスね」
「うん………」
「なんか……違うんですか?」
別団体への参加か、階級変更か。それとも渡米か。
「………まーな」
「………」
経験したことのない沈黙が2人の間に流れた。章介はなんとも言えない不安に追い立てられるような感覚を覚えたが、かろうじて何も言わずにおいた。
慎也の表情が、強い感情の揺れを押し留めているように見えたからだ。強い違和感を無視しきれないような、とにかく見たことのない表情だった。
「なあ、章介。おかしいと思わねーか?」
「な、何が………」
慎也が顔を上げた。思わず気圧される章介の目を真っ直ぐに見つめてくる。
「なんで強い奴を決めるのにこんなに種目が入り乱れてんだよ。それぞれの分野で強い奴が決まればそれでいいなんて、なんの冗談か分かんねえ」
「……ぇ?」
章介は慎也が話す内容のスケールに付いて来れていなかった。
『格闘技』と言う枠組みを兄弟子がこれほど俯瞰して見ているとは全く気づいていなかったのだ。
キックボクシングは数ある格闘技の一つ。最も高い頂ではない。数ある高い山のうちの一つに過ぎない。そのうちの一つでお山の大将でいることに、彼はすでに価値を見出せていなかったのだ。
しかし章介はそれを理解するのに時間が足りない。目の前にいる慎也の紡ぐ言葉が頭にすんなり入って来ないのだ。
「……随分前からずっと考えてたんだ。キックボクシングという技術にその資格があるのなら、どこまでいけるか試してみたいんだよ」
「…………っ」
ここで章介は慎也が何に挑もうとしているのかおぼろげに把握し始めた。
慎也の考えは現実離れし過ぎている。ただ。
章介は慎也との練習の日々を思い出していた。
強さへの飽くなき執念。
どうしてそこまで。そう思うほどの練習量と質。
プロ戦での勝利に全く心を動かさない鉄の意志。
そして章介は、勝利した慎也が笑っているのを見たことがなかった。
「俺は…………本当の意味では………まだ慎也さんの言ってること分かんないけど」
「…………」
話して行くうちに像をなしていくような感覚だった。
彼の行き先を邪魔したくない。
それが、現時点での結論だった。
「……周りがどう言おうと、やるんでしょ?いつもみたく」
「………まあな」
慎也はいつもの笑顔で笑った。