放課後、部活を終えた夕暮れ時。
静まり返った教室棟の廊下をひとり歩く。
忘れ物を取りに来た自分以外に、人気はなく、無人の教室が並ぶ廊下を進む。
朝の予報で聞いた夕立は、結局降らなかったな、と廊下の右手の窓を見上げて、ぎょっとする。
朱から薄暗い蒼へと変わっていた空が、異様な黒へと変わっていた。
いや、空というよりは、窓からの景色そのものが全て、黒一色になっていた。
思わず立ち止まり、窓の外を見つめていると、背後に花火のような光を感じる。
視線だけをそちらに向けると、光は、徐々に、こちらに近づいてくる。
大きなドットで構成されたそれは、文字を象っていた。
『ね・が・い・を・か・な・え・な・い・と・で・ら・れ・な・い・へ・や』
一文字、一文字、廊下の窓を、テロップのように一枚ずつ進み、陽和を照らす。
最後の文字が、自分を追い抜き、暗い廊下を進んでいく。
その文字を目で追っていると、廊下の突き当りに人がいることに気付く。
惹かれるように、そこへ足を進めると、その人影の正体はよく知る後輩だった。
「那月……」
「先輩! 良かった。誰もいないかと思ってました」
怖がる様子を見せ、すがるように此方に近づく。
小さな肩に、思わず手を置き、彼女を覗き込む。
「大丈夫か? なんか、外の様子、おかしいよな。窓に変な文字も出てたし」
「窓だけじゃなくて、校舎全体がおかしいんです。外に出られなくなってて……」
那月の言葉に驚き、二人で廊下を進む。
左手に並ぶ教室の扉は、堅く閉ざされているし、黒い景色しか移さない窓も開閉の自由が利かない。
つい先ほど、自分自身が利用した階段へと足を向けるも、そこには、見覚えのない壁ができていて、行き止まりになっていた。
長い廊下の中に、二人、閉じ込められている。
「なんだこれ……。どうなってるんだ」
「階段が、なくなっちゃたんです」
陽和は、見覚えのない壁を手でなぞる。冷たい感触のそれは、確かに壁の素材で、不可解な状況に顔をしかめる。
那月が怯えるのも無理もない。混乱しそうな頭に鞭を打ち、陽和は、状況を打破する方法を考える。
「窓でも割ってみるか」
「えっ」
「廊下の端の窓なら、うまくいけば、非常階段に渡れるかもしれないし」
「でも、外の様子、変ですし、何が起こるか分からないですよ」
心配そうに、陽和の袖を那月が掴み、止めに入る。
「けど、このまま、此処に待機しとくわけにもいかないだろ」
「窓ガラス割るなんて危ないですよ。先輩、怪我しちゃうかも」
ここまでの異常事態で、そんなことも言ってられないと思う一方で、必死で心配してくる那月に苦笑する。
「別に素手で割らなくても、廊下に消火器とかあっただろ」
「結構、本気で破壊する気ですね……」
「そりゃ、閉じ込められるわけにもいかないし」
そっと、那月の手を離し、陽和が、廊下の突き当りにある窓へと近づく。
他の窓と同様に、黒一色しか見せない景色を睨んだ後、窓ガラスの厚さを確認すべく、手で触れようとした時だった。
触れる直前のガラスが、花火のように光り、放射線状にドットが拡がる。そして、窓ガラスに文字が映し出される。
『STOP』
「ストップ?」
「割るのやめろ、ってことですかね」
那月の声を受け取ったかのように、文字が四散し、三角の警告マークと共に、窓ガラスに文字が流れる。
『願いを叶えないと出られません』
先程、廊下で見かけた文章が、再び提示され、顔をしかめる。
「願いって、なんのことだ?」
「願望とか、希望とか、そういうのですよね」
「誰の」
「ここには、私と先輩しかいないっぽいですけど」
窓ガラスに映るテロップの光が、那月の横顔を照らす。
不安と困惑が混ざる顔をしながら、那月が口を開く。
「先輩は、何か、お願い事、ありますか?」
「俺?」
問われて、陽和は不可解な顔をしたまま、思考を巡らす。
願いと言われても。思いついて言葉にしたところで、なんでも叶うような場所とでも言うのだろうか。
叶えないと出られない、と書かれている辺り、そんな都合の良い場所でもないような気がする。
下手に言葉にして、それが叶うまで出られない、なんて、酷いことにならないだろうか。
警戒心を強めて、言葉を濁す陽和に対して、那月は逆に積極的だ。
「小さな願い事でもいいですから、何かないですか? 欲しいものとか、したいこととか」
応援でもするかのように、陽和を促す。そんな那月に同調するかのように、窓ガラスのテロップが、ちかちかと光る。
「んー……、とりあえず此処から出たい」
口にした途端、窓ガラスがピカッと光る。
『他には?』
「なんか回答が気に入らなかったみたいですね」
「なんなんだよ、この空間。言えば叶えてくれるのか?」
イラッとしながら窓ガラスを睨むも、こんな時には光らない。
願いに好みでもあるのだろうか。
「じゃあ、金持ちになりたい、食うのに一生困らず、遊んで暮らしたい」
「大きな願望に出ましたね」
回答内容がツボだったのか、緊張が解けてきたのか、那月が小さく笑う。
窓ガラスは、うっすら淡い光を一瞬、灯し、再び、暗くなる。
「那月は? 何か願望とかあるのか?」
尋ねながら、陽和は、那月のパーソナルデータを改めて思い出す。
一つ下の後輩である彼女と、そもそも知り合ったキッカケはなんだっただろうか。
こんな異空間にいるせいか、うまく記憶を引き出せない。
働かない頭が、那月は名家だと一目で分かる程の、大きなお屋敷に住んでいることを、ふと呼び起こす。
家柄の良い彼女に対して、自分の挙げた願いは、俗っぽいものだったかもしれない。
しかし、那月は、特にそれを揶揄することもなく、陽和に答える。
「私の願望は、――先輩とずっと一緒にいることです」
「え?」
柔らかな透き通る声で、静かに言われ、目を開く。
陽和が、言葉を返す前に、ピカリと窓ガラスが光る。
横目で見れば、ぐるぐると光の粒子が回り、中心へと集まっていく。
そして、中心部の光の渦から、小さな丸いカプセルが吐き出された。
カツン、と音を立てた後、廊下を転がるそれを、那月の細い指先が捕らえる。
ガチャガチャに入れられるようなカプセルだが、中身は空だ。
光りにかざして中を覗いた後、那月がカプセルを開けようとするも苦戦する。
「開かないですね」
「中は空みたいだけどな」
言いながら、カプセルを那月から受け取り、左右にねじる。予想に反して、あっさりフタは開き、突如、手元から光があふれる。
眩しさに目を細めながら、手元のカプセルを見ると、異変が起きていた。
手の上に乗せたカプセルが、徐々に、大きくなっていくのだ。
左右それぞれの手の中におさまっていたカプセルは、手で掴みきれない程の大きさになり、手のひらの上にでかでかと鎮座する。
カプセルは大きくなり続け、片手で持ち続けるのが困難になり、落としそうに片足を半歩後ろにずらす。
そして、ハッと気付く。すぐ隣に立つ那月が、こちらをはるか頭上から見下ろしていることに。
カプセルが大きくなったのではなく、陽和自身が小さくなっているのだ。
驚きと共に、手からカプセルを落とす頃には、半分に割れたカプセルが自分の背丈と変わらない程になっていた。
想像を超えた異常事態に、陽和は言葉を失いながら、巨大な那月を見上げるが、那月は表情を変えずに、ゆっくりとしゃがみ込む。
大きな風圧を感じ、艶めかしい脚が自分の何倍もの大きさで目の前に現れる。
「先輩、手乗りサイズになっちゃいましたね」
淡々と述べた後、那月が自身の大きな指先を、陽和のすぐ傍の床へと下ろす。
「うーん。私の人差し指よりは小さいけど、小指よりは大きいですね。ふふ」
自分の背丈より大きな指が、目の前で風を作りながら、くるくると踊る。
不気味な光景と、自分の身に起きた異変に、陽和は戸惑うばかりだが、那月は特に騒ぐ様子も見せず、楽し気に笑う。
校舎の異変には怖がっていただけに違和感を覚え、その場を動けずにいると、那月が口を開く。
「どうしたんですか、先輩。そんなサイズで、そんなところにいると、危ないですよ。乗ってください」
那月が、指先を遊ばせるのを止め、床に添えるように、手のひらを拡げる。
「……、あ、あぁ」
大きな瞳で凝視されながら言われ、内心迷いつつも、那月の手のひらへと足を進める。
薄暗い廊下の壁が、高層ビルのように大きく見える。
華奢で自分よりも小柄だったはずの後輩が、巨大な影を添えて、小さな生き物を観察するような目でこちらを見つめている。
あまりに急な出来事で、考えが追いついていなかったが、こんな異常な状態を、那月はどうしてすんなり受け入れているのだろう。
驚きで麻痺していた頭が、徐々に、冷静さを取り戻し、静かに警告を鳴らしていく。
小さな片足を、那月の手のひらに乗せて、再び、動きを思わず止めていると、那月が空いた手で、床に転がったままのカプセルを手に取る。
「先輩を小さくしたガチャガチャのカプセル、中は空みたいですね。何か、外に出られるヒントがあるのかと思ったけど……」
左手に小さな陽和、右手に空のカプセルを乗せ、那月が双方に目を向ける。
そして、静かに陽和を見つめる。
「もしかして、カプセルの中身を使うんじゃなくて、カプセルの中に《何か》入れないといけないのかな」
何か、と言われ、全てを理解しきる前に、ほぼ反射的に、陽和は那月の手のひらから飛び降り、大きな廊下を駆け出していた。
全速力、無我夢中で、後ろを振り返らず猛ダッシュしていたにも関わらず、小さな身体では大きな効果は発揮できなかったらしい。
すぐ目の前に、大きな風圧と共に、白い手の甲が床を突き、進路を阻まれる。
振り返れば、大きな那月が、ほんの少しだけ上体を前にして、陽和を覗き込んでいる。
「先輩。危ないですよ。動かないで」
言葉と裏腹に、那月からは危険な空気を感じる。
陽和は、周囲を少し見渡してから、那月を見上げる。
「俺をどうするつもりなんだ?」
「先輩に何かあったら大変だから、カプセルに入れようと思っただけですよ。ここから出られる何かが起こるかもしれないですし」
「そんなところ入ったら、自力で出られなくなるだろ」
「だから安全なんじゃないですか」
何の疑いもなく、そう言われ、那月がカプセルの半分をつまみ、陽和の目の前に置く。
傾いた半球は、今の陽和には屈めば簡単に入れてしまう程の広さだった。
ガチャガチャの中に入ったオモチャと大差ない大きさに縮められたことを、改めて思い知らされる。
ここに入って、フタを閉められれば、内側からは開けられない。
那月の許可なしには出られなくなる。
ゾッとして、踏み止まっていると、那月の大きな指が、陽和の背中に触れる。
「先輩。大丈夫ですよ。私、ちゃんと丁寧に持ちますよ」
楽しそうな声で言いながら、ちょん、と背中を大きく押される。
身体のサイズ比を変えられたからだろうか。物理的に押されただけではなく、はるか頭上から期待に満ちて見守る那月の様に、大きな圧力をも感じる。
陽和は、カプセルを睨みつけながら、球体へと近づく。そして、勢いよく、カプセルを蹴り飛ばした。
「あっ」
カプセルの片割れは、那月の指先から離れ、コロコロと転がっていく。
予想外の行動に那月が驚いている隙に、陽和は再び、一目散に廊下を駆ける。
大きな那月の死角となるよう、脚下の影から廊下の隅へと目指すも、早々に背中に激痛が走る。
「ぐぁッ」
陽和が体勢を崩して倒れる。ふわりと身体が持ち上がり、大きな廊下が遠い足元へと離れていく。
後ろへ視線を回せば、陽和の背中を服越しに強く掴み、こちらを冷たく睨む那月と目が合った。
細い指先が、くるりと反転し、正面に向けられる。
「何してるんですか、先輩」
「那、月……ッ、離ッ、痛っ」
「もー。女の子の足元に駆け込むなんて、マナー違反ですよ。先輩は悪い子だなあ」
背中を桁違いの力で掴まれた上に、持ち上げられたことによって制服が首元に食い込んでいく。
痛みと苦しさで顔をしかめる陽和に、那月は配慮するどころか、少し面白そうな物を見ている様子だ。
「じたばたしてて、先輩、小さな虫みたいですね。本当に小さくなっちゃったんだなあ」
「ふざ、けんなッ! 何やって」
「あんまり暴れないでくださいよ。間違って潰しちゃったら大変じゃないですか」
簡単に、こちらの命に係わることを、なんでもないように言われる。
目の前で自分を掴む彼女は、本当に那月なのか?
つい先ほど、この異空間に怯えて怖がっていた彼女と、本当に同一なのか?
さっきまでの様子が嘘だったのか、それとも、こちらのサイズが小さくなったせいで、態度が変わってしまっているのか……。
驚きで抵抗を陽和が止めると、那月がにこりと笑って、指先を伸ばしてくる。
人差し指の腹が、感触を確かめるように、陽和の小さな頬に触れる。
力の加減が分からないのか、意図的なのか、優しい愛撫とは程遠い。柔らかなボールを強く圧しつけられているようだった。
制するよう声を出そうと口を開けるが、それも、簡単に、指の腹で塞がれる。
「んッ、ぐ……!」
大きな人差し指に、小さな自分の手を絡ませ、退けさせようと試みるが、全く力が敵わない。
「わあ。先輩の指、小さくて可愛いですね。こんなに小さくても、ちゃんと指とか爪とかついててすごいなあ」
精巧な作りの造形品を褒めるかのような口調だ。
那月の中で、小さくなった陽和は、もはや人間として認識していないことが、はっきりと分かる瞬間だった。
――逃げろ、一刻も早く。
全身が警鐘を鳴らすも、力が敵わない。
「私の爪、先輩の手より大きいですよ」
口元に当てた指の爪を見せつけられる。より押さえつけられた那月の指が、陽和の頬に食い込み、口だけではなく鼻まで押さえられる。
「っふぐッ、ぅ、うぅ……ッ!」
息苦しさに、小さな手で那月の大きな指に、必死で絡みつく。
小さな爪が、申し訳程度に、那月の指に食い込み、那月が大きな瞳を、しばたたく。
そして、ようやく察したのか、指が口先から離される。
「あっ、ごめんなさい。息苦しかったですよね。死んじゃいますもんね」
事の重大性と釣り合わない声色での詫びを聴きながら、陽和は那月の爪先に手を置き、荒く呼吸する。
ぼやける視界を、なんとか持ち上げて、大きな那月を見上げる。
「お前……ッ、俺を、殺す気か」
「殺すなんて、そんな……。そんなに怖かったですか? 先輩、意外と怖がりですね。小さくなっただけじゃなくて、ちょっと幼くなってるのかな」
幼子を見つめるような目を向けられ、話が通じない状況に、危機感が増していく。
「私、言ったじゃないですか。先輩とずっと一緒にいたいって」
陽和の背をつまむ手が水平に傾く。手のひらへ強制的に仰向けにされ、那月の大きな指先が、陽和の全身を撫で上げる。
弾力のある指の腹から、緩やかに圧を感じる。
力次第では、今の陽和の身体は、簡単に潰されることを肌で感じる。
今まで生きていて、ここまで、全身で生命の危機と恐怖を覚えたのは初めてだった。
那月が、うっとりとした顔で、陽和を見つめる。
「こんなにいっぱい、先輩と一緒にいられてうれしいな。これなら、先輩とずっと一緒にいられますもんね」
「ずっと、って」
「すごく悩んでたんですよね。もうすぐ先輩、卒業しちゃうし、ただの後輩の私のこと、どうすれば忘れずに、ずっと一緒にいられるかなって」
陽和の全身を撫でていた指が離れ、寝かされている手のひらを下から支えるように添えられる。
「半信半疑だったけど、おまじない、うまくいって良かった」
やはり意図して行われたことだった、と予感が当たったのが分かると、陽和は素早く身体を起こし、那月の手のひらから勢いよく飛び降りた。
那月が床に座り込んでいたとはいえ、今の陽和には、手のひらの上から降りるには、相当の高さだった。
「あっ!」
驚きと焦りを混ぜた声を、那月が出すが、小さな身体は、那月のスカートの上に落ちる。
正座を崩した太ももの狭間、たゆんだギャザースカートの上で、陽和は足を取られながら、走り進む。
「先輩っ、どこ走ってるんですか!」
那月のずれた抗議を上空で聞きながら、左右で大きく蠢く、太ももに恐怖を感じる。
足を止めるな、走れ! と自身に鞭を打ち、走り切る。
スカートの端までたどり着き、床へと飛び降りる。
手のひらの上よりは低いが、なかなかの高さで、身体を倒れ込むような着地だった。足をもつれさせながら、身を起こし、走り出そうとした刹那。
バシンッ! と、強い音を立てて、目と鼻の先に、大きな手のひらが床を打つ。
風圧に身体が後ろへ動く程だった。
一時的に足を止めたのを見逃さず、那月が、再び陽和の首根っこを掴む。
「危ないですよ、先輩。怪我しちゃいますよ」
優しい口調で、けれど、全く笑っていない目をして言われる。
どうする。どうすれば、元に戻れる? 焦る頭で必死に考えるも、答えが出る前に、那月が、パッと摘まんでいた指先を離す。
ぶわり、と音を立てて、小さな身体が下へと落下していく。
声を上げる前に、ぺしゃりと、予想より早い着地を遂げる。床に転がっていたはずの、カプセルの半身だった。
丸みを帯びた球体に、尻と手を突き、膝を立てる。
顔を上げた時には、既に、カプセルの片割れが迫っていた。
――ガチリ、と鈍い音を立てて、カプセルが閉められる。
「すぐ逃げちゃうんだから。先輩は、いたずらっ子、ですね」
那月が目を細めて笑う。
それと同時に、真っ暗だった窓の外が、次々と光を取り戻していく。
無音だった空間に、自然の音が生まれていく。
本能的に、不可逆の反応が終わろうとしていることを悟り、陽和は狭い球体の中で身を起こし、透明の壁を叩く。
「那月!! 開けろ!!! 俺を元に戻せ!!」
カタカタと、小さく揺れる丸いカプセルを指先で支えたまま、那月が視線より上へと持ち上げて見上げる。
大きな瞳が、きらきらと輝かせながら、こちらを見ている。
「心配しなくても大丈夫ですよ、先輩。先輩のお願い事も、叶いますよ」
くすくすと、いたずらする子供のように笑われる。
「私のお家で、飼ってあげますから安心してください。毎日、ちゃんとご飯もあげますから、先輩は《一生》遊んで暮らして大丈夫です」
陽和の手が止まり、カプセルの揺れがおさまる。
廊下の窓が全ての光を復帰させ、外へと続く階段が何事もなく現れる。しかしその頃には、陽和を入れたカプセルは、那月の制服のポケットにしまわれていて、元の風景を、陽和が再び、目にすることは叶わなかった。
*
べとり、と唾液が頬を伝う。
いつか自分は、この液体に溺れるか、目の前の大きな口に放り込まれるのではないか、と疲弊しきった頭が、未だ警鐘を鳴らす。
だからなんだと言うんだ。
しっかりと、全身を掴む大きな指からは、今日も逃れられそうにない。
自分が選べる選択肢など、ほとんど無に等しい。
「先輩、なんだか元気ないですね」
濃厚なキスに、応じるどころか抵抗や拒否すらしない陽和に、那月が心配と不満を混ぜて覗き込む。
「今のケージ、気に入らなかったですか? それともご飯が足りないのかなあ。透明の虫カゴだと、あんまり声が聴こえないし、ケージの方が、オモチャとか設置しやすくていいんだけどなあ」
うーん、と那月がうなり、陽和を大きな手で掴んだまま、言葉を続ける。
「あ。もしかして、一人でいるのがまた寂しくなっちゃいました? 私、いない間は、誰もいないですもんね」
陽和が言葉を返さないことに気にも留めず、那月が、スタスタと部屋の隅へと進む。
「じゃあ、今日は前みたいに、鳥かごにしますか? ここなら、ピィちゃんもいるし、寂しくないですよね」
『ピィちゃん』と那月の言葉に反応した小鳥が、鳥かごの中で大声で騒ぎだす。その声を聴き、陽和が途端に、顔を上げる。
「……ッ! やめてくれ! 鳥かごは、嫌だ……ッ!」
自分より巨大な鳥に、間近で騒がれながら、小虫のように捕食されかけた恐怖を、かごの中で徹底的に刻まれたことは記憶に新しい。
振り絞って出した声に満足したのか、那月が、ふふ、と柔らかにほほ笑む。
「なんだあ。寂しかったわけじゃないんですね。じゃあ大丈夫ですよね」
笑みを浮かべていた唇が、そっと開かれ、生暖かい舌がこちらに伸びて来る。
この部屋に来て、何日経ったのだろう。
この生活に終止符を打つ、自分の《一生》は、あと何日になるのだろう。
「先輩。ずっと一緒ですよ」
甘い声が漏れる唇から、唾液が伝い、陽和の顔を濡らした後に、ぽたりと遠い床へと堕ちていった。