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男子柔道部 対 女子空手部 〜Defeat the phantom〜 Part2

「これより、女子空手部と男子柔道部による、5対5の団体戦を行います。今回は特殊な試合であるため、特別なルールを設けます!」  場内中央に立った一人の女子部員が、甲高い声でルールの説明を始めた。 「ルールは出来るだけ単純にするため、空手ルールと柔道ルールをそのままミックスさせたものにします。つまり、空手ルールにおける、蹴りを除き、顔面への突き(パンチ)の禁止、そして急所への攻撃の禁止、それ以外の打撃は全て有りとします。また、柔道における投げ技、寝技、関節技、絞め技、も有りとします。制限時間は無制限。決着は“一本”か“ギブアップ”、ノックアウトによるものとします。以上!」  ひととおり言い終えた女子部員は、そこで言葉を区切った。 「ちょっと質問いいか?」  すると、さっきからどこか落ち着かない様子だった雄二が、おもむろに手を上げた。 「……?」  女子部員が無言で彼を促す。 「寝ている時はどうなるんだ?ここが一番問題じゃね?柔道では寝技中に殴られることなんかねえからよ。そこんとこ決めねえと……」  そこは考えていなかったのか、しばし思案に暮れた女子部員は、麗菜たちの方を見遣った。 「寝技の際の打撃は有りよ」  彩乃が迷わず言い放った。その一声に、女子、男子、両陣営はまるで正反対の反応を示す。 「おい、んなのこっちが不利じゃねえかよ!」  雄二は相手に詰め寄りかねない態度で抗議した。しかし当の彩乃はそんな彼の勢いなど意にも介さない様子で冷静に対応した。彼女は常に洗練された笑みを湛えている。しかし、その笑みに柔らかさなどは到底感じず、底知れぬ不気味さがうかがわれた。 「当然の取り決めですわ。そうでないともしも寝技になった際、私たちは何も対応できなくなってしまいます。もしやあなた方は無抵抗の女性を一方的にいたぶる趣味がおありで……?」  優雅な言葉遣いのままに、挑発的に言ってのけた彩乃に、男子たちは何も言えなくなった。彼女は、“こうすれば男子を思うがまま操れる”という事を知り尽くしている様であった。 「……わかった。そのルールでいこう」  男子柔道部の主将、信彦は俯いたまま、しぶしぶ了承する。弱気な彼の態度に驚いて、雄二たちは一瞬信彦に口出ししそうになるも、すぐに諦めてそれに従う事にした。 「ご譲歩、感謝いたしますわ。ちなみに寝技の際も立ち技同様、顔面へのパンチは禁止、それ以外での攻撃は可といたしましょう」  すべては彩乃の言いなりでルールは決まっていった。 「ふん、なにが“無抵抗の女性”よ。本当はアンタが“無抵抗の男子”を一方的にいたぶりたいだけでしょ……」  そんな、麗菜の意地の悪いボソッとした声が聞こえた。 「麗菜さん。人聞きの悪い事を仰らないでください」  彩乃はそれを聞き逃さず、先ほどと同じ、不気味なまでに完璧に造られた笑みを顔に張り付けながら反応した。麗菜はそれだけでは飽き足らないようで、またも憎まれ口を付け加える。 「いや~怖いわ。ちゃっかり“時間無制限”って事になってるし、はぁ~、『彩乃女王様の無限SMショー』を永遠に見せられるのか~」  わざとらしく、うんざりとしたようにぼやく麗菜。そう言いながらも、彼女はどこか楽しみにしている感じが隠しきれていなかった。それは、他の女子も同様だった。   「その代り、柔道ルールでの判定はそちらの審判に任せるわ」  何を思ったのか、彩乃が今度は男子にとって有利な条件を出した。 「……?」  男子たちがあまりに唐突な彼女の譲歩にいぶかしむ。信彦が口を開いた。 「それってつまり……相手を投げた際に、“一本”かどうかを俺達に判断させてくれるって事か?」 「ええ、そういうことですわ。ま、せいぜい公平な判定をお願いいたしますわ。……あまり期待はしておりませんけど、フフ」  どうも彩乃は、男子たちが彼らにとって有利な判定をするものと決め込んでいるらしい。 「ま、妥当ね。ただし、アタシたちを“投げられたら”の話だけどね」  麗菜が余裕の様子で続けた。 「あと、どうせアンタたち、卑怯な反則とかしてくるだろうけど、それについても判断は任せるわ。ただしこれだけは言っておく……“反則していいのは、同じことされる覚悟のある人間だけ”……だよ」  彼女の絶対的な自信に満ち溢れた言葉に、男子たちはゴクリと唾を呑み込むばかりだった。  こうして、まずは第一試合目が開始された。 「先鋒隊!行ってまいります!」  風華が大げさな敬礼を決めて中央へと進み出た。一方、男子側から出てきたのは幸太郎だった。 「おい!おまえ!ちっこいの!おれは脳みそなんかじゃねえ!」  彼はいまだに先ほど風華に言われたことを根に持っていたようだった。 「うっさいな~、ちっこいちっこいって……あんたみたいなウドの大木は一番倒し甲斐があるんだよ」  彼女の態度とは裏腹に、周りで観戦している一般の女子生徒たちの様子は不安げだ。 「風華ちゃん……ホントに大丈夫?」 「体格差がありすぎるよ……」  風華は周りのみんなを安心させるためか、一般の女子生徒たちに向けてグッと親指を立てて見せた。 「安心したまえ!みんな!どんな攻撃でも、当たらなければどうという事はない!武道と言うのは体格差なんて関係ないという事を証明してみせよう!」  明るく、ふざけた様子でそう言って見せる風華に、女子たちは色めきだった。 「きゃー、やっぱり風華ちゃんカッコカワイイ!」 「頼れるー!風華ちゃんと付き合ったらあんな暴漢相手でも守ってくれそう!」  そんな声援に、風華はますます調子づいた。 「はっはっはっ、みんな守ってやるさ!みんなには指一本触れさせないよ!」  そんな彼女を前に、幸太郎はフンッと鼻から息を吹き出す。 「おまえバカか!たたかいなんてカラダでかいほうのかちだ!じゅうどうは力持ちのほうがかつんだよ!」 「うわーこのひと脳みそ筋肉で出来てるわー」  風華がジト目で幸太郎を見ていると、女子部員の一人が二人の間に位置取った。男子側から出てきたもう一人の審判は、柳である。理由は、彼が一番柔道に精通しているからであった。 「第一試合目、始め!」  合図が響き渡ると、まずは風華が動き出す。彼女は素早い動きで幸太郎の周りを回った。 「どうだい!うすらデカいの!私の姿が見えるかね⁉」  幸太郎は風華の動きを追うどころか、動こうとすらしない。なにがなんだか分かっていないようだ。 「くそ~ちょこまかと~」 「くらえッ」  幸太郎の太ももを鋭い音が弾いた。 「この!」  すぐさま彼女が“居た方”に手を出すも、つぎは逆方向から中段突きが飛んでくる。 「ぬうッ!」 「どこを見てるんだい⁉」 体格差ゆえ、彼女の攻撃は致命的なダメージを与える事は出来ないまでも、あきらかに幸太郎は苦戦を強いられていた。 「トウッ!」  またもや彼女の攻撃、今度は膝蹴りが幸太郎の脇腹へと突き刺さる。 「ふぐっ⁉」  いくら体格差があるとはいえ、勢いのついたヒザがまともに肝臓に入ればさすがに無事には済まない。しかも、幸太郎には風華の姿がまったく見えていない為、いわば彼女の攻撃は全て“不意打ち”と変わらないのだ。人間というものは、“意識の外”から攻撃を受けると、普通以上のダメージを受けてしまうのだ。  一方的な試合だった。女子側はまるでこの展開を分かっていたとばかりに別に驚きもせず、喜びもせず、余裕の笑みを浮かべ、またある者は無関心で、ただ平然とこの試合を眺めていた。一方男子の方は必死で声を張り上げ、幸太郎を応援するも、彼らの声は一般の女子生徒達の黄色い声援によって打ち消されてしまう。  五人以外の、全てのものがみな、この展開を望んでいた。 「ほらほら!どうした!そんな“亀さん”になって!ほら!そんな角っこに行ったらウッカリ場外になっちゃうよ!」 「うわ~~~んッ!」  バシバシと蹴られ、殴られながら試合場の隅に追いやられる幸太郎。彼はただうずくまる様にガードを固めるのみだった。しかしそれはいわば格闘技としてのガードではなく、ただ単に動物的な本能によって攻撃から身を守ろうとする――“いじめられっこ”がよくやるポーズだった。 「なにあの男子~めっちゃウケる!」 「なっさけな~い!」  外野の女子たちが容赦のない嘲笑を彼に浴びせる。しかし今の彼にとってそんなことを気にする事も出来ず、幸太郎は足を女子の様にX字にして、ついには泣いているかのような悲鳴をあげてしまった。 「もうそろそろ降参したらどうだい~?」  風華はもうすでに試合場の角に設置されたサンドバッグを殴り続ける事に飽きてしまっている。そしてついに、彼女は一際渾身の力を込めて、大きく飛び上がった―― 「これで終わりだッ!」 150センチほどの身長の彼女が身軽にパッと浮き上がり、180センチの幸太郎のアゴを――カツン――と蹴りあげた。 「……」  幸太郎はものも言わず、ガックリと両膝を着く。 「やっぱ、大きい人は倒し甲斐があるね」  風華は彼が崩れ落ちるさまを最後まで見届けもせずに振り返った。そして彼女の小さな背中の前で、大男がゆっくりと前のめりに傾き―― 「……え?」  風華の道着を掴んだ。 「あ……」  周囲の人々は呆気に取られてしまった。別に驚きもしない、喜びもしない、ただ突然、幸太郎が倒れ際に風華の背中の道着を掴んだ――ただそれだけの事だった。 「やっと捕まえたよ~」  さっきまでの泣き顔はなんだったのか?幸太郎はケロッとした表情でむっくりと立ち上がる。彼女の道着は、掴んだまま離さない。 「きみ~、まだ倒れてなかったのか?いい加減しつこいよホント!」  風華はやや呆れ気味にため息を吐いた。道着を掴まれている事は、気にも掛けていないようだ。   「仕方ないな……よし、もう一度ボコボコにしてあげるから大人しくしてなさい」  そして彼女は幸太郎に向き直る……が―― 「あれ?」  ――向き直れない。そこでやっと、彼女は自分の背中が掴まれている事に気が付いた。そして、つぎの瞬間…… 「さあ、ここではやりにくいから、真ん中にいくよ」 「……ぅッ!」  彼女の身体はとてつもない力で引っ張られる。彼女は自らの身体に、軽いGが掛かった感覚を覚えた。抵抗する余地も無い、まるで重機にでも引っ張られたかのような絶対的な力だった。 「なかなか道着を掴めないから一芝居うって良かったよ。捕まえてしまえばもうこっちのものだからね」  さっきとは打って変わって平然とした幸太郎に、女子チームは驚きの声を上げる。いかにも頭の悪そうな巨漢の男が、意外にも狡猾な手を使ってきたのである。 一方の風華は反撃を繰り出そうとするも、風華は背中向きにズルズルと尻餅を引きずられてとてもそれどころではない。そのさまはどこか駄々をこねる子供が親に引きずられていくようなそんな滑稽なシーンだった。  そして、とうとう道場の中心まで戻ってきた。 「さあ、『ジュード―』の時間だ」  それは、まるでフニャフニャの人形と“柔道ごっこ”をしているみたいだった。綿の様な風華の身体は軽々と、しかし風を唸らせながらものすごい速度で幸太郎の頭上を、風車の様にぐるりと一回転した。  ――道場が震えた。轟音と共にすべての人、物、空気が上下に震えた。  その現象はうつ伏せに叩きつけられた風華の体内でも同じ様に発生した。体験した事の無い衝撃と共に彼女の体内のすべての肉、骨、血液とが上下に震えた。震えたのである。道場内の人間すべてが、何が起こったのかが分からず、混乱のあまり息をすることを忘れた様に――  風華の身体すべても、何が起こったのかが分からず、混乱のあまり“呼吸”することを忘れた…… 「……ッか!…………ッか!……ッか!」  のちのち思い出してみると、風華の漏れ出た声はとてつもなくシュールで滑稽なものだった。ともすればふざけているのではないかと取られるくらいに、面白い声だった。鼻から抜けたような、歌舞伎とかで発しそうな、そんなマヌケな声だった。  彼女は立ち上がれない。全身、余すことなく全面を地面に打ち付けられた彼女の身体はピクリとも動かなかった。小動物の様な風華の目が大きく見開かれている。全身を打ちつけられるという出来事がもたらす“効果”に驚き慄いているようだった。   そしてその場に居る誰もが、風華の“一本負け”――彼女の敗北を悟った…… しかし―― ――その時だった。 「技有りッ!」  全員の視線が、柳に集まる。 「ちょッ……今の、“一本”じゃないの⁉」  麗菜が叫んだ時、男子たちの間から冷やかす様なヤジが飛んだ。そのヤジは、幸太郎に向けられたものだった。 「バッカ、おめえ!背中から落とさねえと“一本”じゃねえんだよ!」 「幸太郎はあいかわらず柔道がヘタクソだな……」  雄二と真也が、ゲラゲラと笑いながら幸太郎をこき下ろす。 「うっさいな~!意外に難しいんだよ、これが!くっそ~、一発でキメるつもりだったのに~」  幸太郎の顔は真っ赤に染まる。恥ずかしさのあまり、訳が分からなくなっているようだ。 「ちょっと審判!これもう勝負は決まってるでしょ⁉」  麗菜は『柔道ルール』の審判を務める柳に抗議する。しかし彼は事もなげに、ごく当たり前の事をごく当たり前に説明した。 「“一本”というのは『相当な速さ・相当な強さ・背中を大きく畳に付ける』の三つが揃って成り立ちます。今回の場合は『速さ』と『強さ』はあったものの、『背中を畳に付ける』までには至っていません。三つのうち、どれか一つが欠けたら『技有り』になるんですよ。よって――試合は続行です」 「な、なによそれ……彼女はもう闘える状態じゃないわ!」  柳は表情を変えずに、言った。 「僕はあくまで、“公平な判定”をしたまでです」  麗菜の隣に座る――彩乃の眉が、ピクリと動いた。  すると場内の方では何やらまた喧騒が上がった。 「ああッもう!今度こそ決めてやる!」  幸太郎は両手をグッと上に引き上げる。釣られて風華の身体もぐらりと引き上げられた。力なく、ぐったりと身体を浮かせる風華は、まるで上から釣られた操り人形の様だった。 「ウォラーッ!」  興奮した幸太郎はやけくそになって風華を振り回した。もはや技でも何でもない。彼は片手でまるでハンドタオルでも振り回すかのように頭上でグルグルと彼女の身体を旋回させると地面に大きく叩きつける。 「おゔぇッ……!」  小さな体が跳ね打った。叩きつけられた反動で跳ね上がった風華は、空中を舞いながら、へそを天に突き出す様に身体を仰け反らす。今度はたしかに背中から落ちたのだ。 「……」  しかし審判は何の判定も下さなかった。 「くそ~~ッ!」  その判定に、幸太郎はますます赤面した。そして彼はとうとうデタラメに、∞字を描くように風華の身体を振り回し、何度も何度も地に叩きつけた。叩き付けては振り回し、叩きつけてはまた、振り回した。 「……」  もはや風華の悲鳴すらも聞こえない。滅茶苦茶にされすぎて、今彼女がどんな表情をしているかすらも分からないのだ。ただ、彼女の身体がすでにボロ雑巾のようになっていることだけははっきりと分かった。 「ちょっと、審判!さっきから何で黙ってるのよ⁉」  またもや麗菜が声を張り上げた。さきほどから審判はいま目の前で行われているこの公開処刑をただ眺めるばかりで、何の判定も下そうとしない。 「アンタまさか……風華を痛めつける為にわざと判定していないのね……」  彼女は憎悪を込めた目で柳を睨み付ける…… しかし、柳の反応は冷ややかなもので、かつその答えは至極真っ当なものだった。 「いや、あれはさすがに技とは呼べないでしょ。柔道というのはあくまで技の最中もしっかりと相手の身体をコントロールすることが原則です。まず片手で振り回してる時点でダメです」 「クッ……」  あくまで正当なその判定理由に、彼女は何も言い返せない。  そんな時、試合場を取り囲む一般女子生徒たちからも抗議の声が上がった。 「風華ちゃんをそれ以上苛めないでよ!」 「早く技決めて!早く終わらせてあげて!」  あまりの惨劇に耐えられなくなったのだろう。彼女たちはみな、幸太郎に対して懇願する様に声を上げた。 「うるせえな~、俺も早く決めたいんだよ……」  彼は悔しそうに歯噛みする。なかなか一本が取れない事にだんだんとイライラしてきているのだ。ちょうどそんな時だった――女子生徒たちの中から、一際大きな声が飛んできた。 「ホント柔道下手過ぎッ!このうすらデブ‼」  一般の女子生徒の一人が発した暴言に、幸太郎の眉がピクリと動く。 「なんだとコラ~……」  彼はその声の主である女子生徒をギロリと睨みつける。そして、すでにぐったりと動かなくなった風華の身体を、再び両手で持ち上げる。しかし女子生徒は幸太郎に対する憎しみを吐き付ける事に夢中で、彼が自分に怒りを向けている事に気付かないでいた。そしてまた彼を罵った。 「何でもいいから早く試合終わらせやがれこの脳筋野郎ッ!」 「また言いやがったなこのアマ~‼」  獣のように吠えながら、ブンッ――と風華の身体を放り投げた幸太郎。彼女の身体はまるでロケットの様に頭で空を切り裂いていった。彼女の身体は、さきほどの女子生徒めがけて突っ込んでいった。  そして―― 「この豚ッ!でくの棒!ウドの大ぼ……ッ」  グシャアッ―― ――という、スイカを潰した様な生々しい音と共に、彼女の言葉がそこで途切れた…… 「…………」  ボーリングと同じ重量と言われる人間の頭。勢いよく突っ込んだ風華の頭は、さきほどまで幸太郎に罵詈雑言の限りを浴びせ尽くしていたその一般の女子生徒―― 「……ひぃッ⁉」  ――の、となりに座る別の女子生徒の顔面にめり込んでいた。 「…………」  道場内は、静寂に包まれた。ポタリ、ポタリと、何か水滴が滴り落ちる様なかすかな音だけが、はっきりと聞き取れた。 風華の頭が、哀れなとばっちりを食らったその女子生徒の顔面に深く突き刺さっている……そのため彼女の表情を窺う事は出来なかった。すでに意識が無い事は明らかだった。さっきまで風華を応援する為にえいえいと振っていた両手も、いまはダランと力なく垂れている。そもそも、生きているのだろうか?それすらも、分からなかった。ただ一つ言えるのは、あれだけ静かだった道場内は、静寂な空間と化した。静寂な空間の中、一つの声が、ポツリと降ってわいた。 「場外」  場違いなほどに冷静な柳のその声が静かに響くと、幸太郎はさきほど暴言を吐いていた女子生徒に近づいていく、のしのしと。 「……アッ……アッ……」  今しがた、自らの顔のすぐそばを人間の頭が掠め、さらにはすぐとなりで自らの友人がオシャカにされたその事実に加え――今まさに巨大な人影が自らの視界を覆い尽くそうとしているその状況に、彼女は声を上げる事すらできなかった。  そしてついに、静かな怒りに震えた暴漢が彼女の目前までやってきた。巨人は、恐怖に震えるばかりの哀れな仔羊に手を伸ばした。  ――やられる  そう確信し、彼女はギュッと目を瞑った…… 「…………」  不意に、彼女の右の耳元をネッチャリとした音が纏わりついた。恐る恐る片目のみを開けてその音のもとに目を向ける。 「……へ?」  見ると風華の頭は彼女の友人の顔面から引き抜かれようとしていた。あんなに可愛かった友人の顔は見るに堪えないほどに醜く変わり果てていた。そのひしゃげた鼻っ柱からは粘着質な黒い血糊が風華の額へと、まるで納豆の様に糸を引いていた。  そして、まるで手提げかばんの様に片手で風華をぶら下げた幸太郎がこの世の人間とは思えないほどの恐ろしい目で、小さく震えながら腰を抜かす目の前の少女を睨み付ける。彼女の周りには小さな水たまりが出来ていた。鼻を突く匂いがした。 「おい、つぎ俺のことをバカにしたら……こんどは確実に殺すからな」  彼女は小さくしゃくりあげるばかりで、何も返事が出来なかった。 「おい貴様!」  場内に戻る幸太郎に、一つの野太い声がかかった。筋骨隆々の逞しい女、佳奈だった。 「私が相手だ。貴様は私の手でひねりつぶしてやる」  湧き出る殺気を隠そうともせず、彼女はもう立ち上がりかけていた。その様子に、女子たちの様子に希望の光がパッと灯る。 「ああ⁉なんだぁ~おまえは~‼」  単細胞な幸太郎は簡単にその挑発に反応する。それに対し、女子たちは『しめた』と息を巻いた。幸太郎の強みと言えば、その絶対的な力だ。しかし佳奈であれば――その、女子とは思えぬほどのパワーを自負する彼女であれば、あの巨漢の男と渡り合えるかもしれない。事実、佳奈の表情に不安のくもりなどは一切なかった。  そして、彼女は幸太郎の前に歩みを進める。幸太郎と佳奈、二人の視線が激しくぶつかりあった。その場に居る全員が息を呑んでその光景を見守っていたその時、一つの声が静かに上がった。 「……いや、ダメですよ」  審判、柳だった。 「あの、さっきのはあくまで場外です。まだ試合は続いてますから」  無機質に言葉を並べる彼に、佳奈は信じられないといった様子で怒鳴りつけた。 「おい!バカな事を言うな!どう考えても彼女はもう闘えない!決着はついただろう!」 「いや、場外でノックアウトはさすがに無効でしょう。ルールは『決着は一本、ギブアップ、ノックアウトによるものとする』……では無かったでしょうか?“戦えなくなった状態”というのは聞いてませんが……」 「グッ……」  常識的に考えておかしい事ではあるが、しかし理論としては一応の筋が通っていた。 「第一、柔道ルールには“ノックアウト”というものはありません。それに、どうやらまだ彼女は意識があるみたいですし……」  見ると場内では、風華が両ひざをつきながらも幸太郎の大木のような足にしがみついていた。彼女なりの意地、なのだろうか。彼女は顔を彼の太ももに埋めるようにしていた。顔を見られたくないのだろうか……  女子たちはどうして良いのか分からなくなった。散々男子たちをコケにしていたにも関わらず、あまりにも一方的な展開になってしまった。彼女たちはそうなった時の事を一切何も考えていなかったのだ。 「幸太郎、そろそろ決めてやれ」  彼女たちが手をこまねいている間に、柳が場内の幸太郎に声を掛けていた。幸太郎は足元に食らいついている風華を見つめながら、どうやって投げようかを思案しているようだ。 「いや、おれも決めようとしてんだけどなかなか決まらねえんだよ!」    そう反発する幸太郎はかなり興奮している。わざとやっているのではなく、どうやら本当に技が決まらないらしい。 「さっき相手を放り投げた時のように、同じ形で今度は相手の身体を下へと落としてみろ。さっきお前がやったの、あれ、『肩車』っていう技だから」 「マジで⁉ただのボディースラムじゃん!プロレスの!」  柳のアドバイスに、幸太郎はまるで初めて聞いたかのように驚いた。その反応につい柳は呆れてしまう。 「お前……教えたことあっただろ?『肩車』は初段を取る試験でも“型”の一つとしてやらないといけないからちゃんと覚えとけよ……」  『なるほど……』とぶつぶつ言いながら再び風華を持ち上げようとする幸太郎。その様子に、女子たちは息を呑む。  そして―― 「食らえ!必殺、『ヒコーキ投げ』‼」 「いや……それはレスリングでの呼び名だろ」  柳のツッコミを最後に、幸太郎は小さなボロ雑巾を、地面へと叩きつけた。 ――鈍い音がした。  彼女は真っ逆さまに落ちた。脳天から真っ直ぐ地面に落ちた。技術的にあまりにも未熟な幸太郎は、彼女の身体を背中から落とす事すら出来なかったのだ。  ポテン――と倒れた風華の体躯。首が、変な方向に曲がっていた。 「風華ッ!」  麗菜が彼女のもとへ駆けつける。風華は仰向けに寝そべりながら、身体をビクビクと激しく痙攣させていた。口からはカニの様に泡が噴き出している。  決着だ。試合は終わりだ。どう見ても、どう考えてみても、これはもう決着だ。焦燥、懇願、憎悪、いろんなものがごちゃ混ぜになった表情で、麗菜は柳を見た。しかし、審判は冷徹な、無機質な表情で、非情にも腕を真横に振った…… 「――技有り」  麗菜の顔から色が消えた。ただただ絶望のあまり、言葉を失った。 「さっきも言いましたよね?速さ、強さ、背中から落とす、この三つの内の一つでも欠けていたら“一本”にはなりません」 「そんな……」  ポツリ……とただ彼女は呟くしかなかった。すると、柳はそんな彼女の様子を見てわずかながら、意地悪くほくそ笑んだ。 「……安心してください。技有は二つ取れば“一本”になります。これは二つ目の技有なので試合終了ですよ」  彼は明らかにわざと麗菜の不安を煽っていたのだ。彼女たちが柔道ルールを知らない事を良い事に、少しからかってみたのだ。麗菜、および他の女子たちは憤慨するよりも先に、今は安堵の気持ちが勝った。その事実がさらに自分たちの自尊心を傷つけた。 「合わせて一本、それまで!」  腕を真上に上げ、正式に判定を下した柳。   「彼女を保健室に運んで!早く!いや、救急車よ!」  麗菜が狂ったように叫ぶと、女子たちは度を失って騒ぎ立つ。恐らくは頸椎が損傷している。かなり危険な状態だ。一刻も早く彼女に応急処置を施さなければならない――みな、その事だけが頭の中を占めた。  その時だった―― 「『スムーズに試合を進める為、大怪我をしてもすぐに手当はできませんので、あらかじめご了承を』――たしか……そんな取り決めを、“誰か”がしてましたよね?」  相変わらず淡々としたその声で、しかしどこか皮肉めいた口調で言ったのは、やはり柳だった。 「――ッ!なによ、そんなこと誰がッ⁉」  今まさに風華を運び出そうとしていた麗菜が、驚愕に打ち震えた。 「そこに居るじゃないですか、そこの――誰だっけ?名前忘れたけど」  彼が指を差した先――そこで固まっていたのは、彩乃だった。 「え……え、な、なんですの……?わ、わたくしが……」  普段の落ち着いた態度からは考えられないような表情で、彼女は口をパクパクさせている。 「みんな、言ってたよな?」  柳は後ろに控える男子たちを振り返る。 「ああ、言ってた。そういえば『途中で逃げられても困りますしね』――とも言ってたよな?俺は聞き逃さなかったぜ」  雄二をはじめ、他の二人もウンウンと頷いた。 「この……外道ッ!」  女子たちは皆一様に男子たちをキッと睨み付ける。柳は困惑気にため息を吐いた。 「いやいや、俺達が責められるのはおかしいでしょ?もとはと言えばあの、あんたらのお仲間さんが余計なルールを決めたのがいけなかったんでしょ?なんですか?自分の事は棚に上げるんですか?卑怯ですねー、誇り高き女子空手部の皆さんは」  煽りに煽ったその口調。しかし彼の言った事は至極真っ当な正論だった。彼女たちはただ歯噛みするしかなかった。そのまさに中心にいる彩乃は、一言も言葉を発する事が出来なかった。当然だ。柳の言った通り、これは彩乃の身から出たさびなのだ。弁明、抗弁、謝罪、すべてが“白々しい言い逃れ”に聞こえる状態である今、彼女にとって最も賢明な判断は、“ただ黙りこくる事”だった。 彼女にとって幸か不幸か、まわりの仲間たちは誰も彩乃を責めなかった。――理由は二つある。 一つはこの学園における、彩乃のカーストの高さだった。名家の出、容姿端麗、頭脳明晰、女子空手部副主将である彼女は、学園中の人間から絶対的な信頼を集めている。そのため誰も彼女に対しては何も言い出せないのだ。 二つ目は、女子たちの強固な結束である。男子柔道部という全女子共通の敵を相手にしている今、彼女たちの憎しみは全て彼らに向いていた。集団心理において、少々の不満や怒りなどは全て、共通の敵にその矛先を向ける事で解消できるのだ。 だから誰も彩乃の事を咎めない。表面上では、みな、『重傷を負った風華が応急措置を受けられないのは、鬼畜な男子たちのせいだ』と思い込んでいる。しかし、みんな自分自身の心の奥底に気が付かないようにしていた。彼女たちは内心、心の奥底では―― 『彩乃、アンタのせいだろ』――と、思っている事に…… なにはともあれ、女子たちの間に、言いようのない“気まずさ”が生まれた。彩乃はその全身に、ひしひしとその空気を感じ取っていたのだった。


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