フェラーリに恥をかかされた翌年、ヘンリー・フォード二世は再びフェラーリに挑むと宣言。
しかし、前回と同じやり方ではまた敗北を見るだけです。そこでフォードはモータースポーツ界の英雄と接触します。
キャロル・シェルビーです。
彼は50年代に活躍していた元レーサーですが、心臓病によって引退。
以後は自身の会社「シェルビー・アメリカン」を立ち上げスポーツカーの設計をしていました。
キャロルは言います。
「速いマシンは作れるが、それだけではレースには勝てない」
GT40で勝つため、その彼が選んだ人物がケン・マイルズです。
レーシングカーの開発と率直な発言で有名でした。
テスト走行を終えたマイルズは、キャロルたちに言います。
「最悪だ」
破天荒な性格のマイルズですが、勝つためには彼の腕が必要です。
すぐ仕事に着手します。
ブレーキ、エンジン、空力性能、ハンドリング、高速走行時の不安定さの軽減。
無数の弱点を洗い出し片っ端から対策していきます。
しかし、努力もむなしく1965年のレースで参加の6台中完走はゼロ。
再び恥をかかされました。
二年間と莫大な金額を費やしましたが、完走できた車はまだ1台もありません。
撤退か続行かを迫られたヘンリーですが、ここで引き下がる男ではありませんでした。
一年後、フォードはル・マンに戻ってきました。
新たな希望「Ford GT40 Mark.II」とともに。
(↑ケン・マイルズ仕様のGT40 Mark.IIのレプリカの写真)
マイルズたちはテストに数千時間を費やしました。
もはや不安定さは消え、時速338キロでもしっかり走れる車が完成しました。
マイルズはフォードの研究開発部門とともに車の信頼性を追求したのです。
その脅威に受けて立つためフェラーリはこの車を開発。
その名も「Ferrari P3」
高さは95センチと、GT40の100cmと比べやや低くなっております。
GT40のトップスピードは時速338キロ。
たいしてP3は時速306キロ。
最高速では劣りますが、フェラーリにはそれを補う秘策がありました。
P3は軽量なため、燃費がよくなるので給油回数も減らせ、カーブで差を埋められると考えました。
1966年、フォードの大軍勢がル・マンに到着します。
主力の8台と、後方支援を担当するプライベーターが5台の全13台の大物量作戦です。
一方のフェラーリは3台のP3のみ。
フェラーリの作戦もむなしく予選ではフォードが上位4位を独占。
走り出しは好調です。
フォード二世はリベンジのチャンスを悲願していました。
本線開始。まずはフォードがリード。
しかし数時間後には64年と65年の再来を予感させる空気が漂います。
悪天候も影響し、全力を発揮できないフォードに対し、フェラーリが機敏さと燃費のよさを生かし1位と2位につけます。
フォードは4台がリタイアしていました。
残る4台は全速力で走ることを禁じられました。故障を恐れてのことです。
しかし、ここで命令を聞かない男が。
ケン・マイルズだけは言いつけを破り全速力で走り、トップを奪ったのです。
フェラーリは速さについていけず、朝までに故障もしくはクラッシュしました。
(↑フィニッシュの瞬間を捉えた当時のメディア写真)
その日の午後、フォードの車が上位3位を独占して戻ってきました。
初めてアメリカ車がル・マンで優勝した瞬間です。
その後フォードは4年連続で優勝。
しかし、最大の貢献者はその勝利を見ていません。
マイルズは初優勝の二か月後、テスト中の事故で亡くなりました。
フォード二世は勝利までに一体いくらの金額を費やしたのでしょう。
専門家によれば今の金額に換算して約515億円だそうです。
とんでもなく高い喧嘩になってしまいました。
しかし、その結果世界最高の車が生まれました。
めでたしめでたし
そんな男たちの活躍と、GT40の誕生秘話を詰め込んだ映画「フォードVSフェラーリ」が1月10日より公開開始です。
出典:The Grand Tour , Octane Japan , Wikipedia ,
青井ひなたちゃんねる
2020-01-11 12:54:31 +0000 UTC